安心問答(浄土真宗の信心について)

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録(松澤祐然述)「26 呼ぼうてのせ給う」

※このエントリーは、「以名摂物録(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

前回の続きです。

26 呼ぼうてのせ給う

 そこで阿弥陀如来は、どうして我等を弘誓の船にのせて下さるるやというに。さても不思議の乗せかたをして下さるるので、その伝授は御和讃の中に。

『弥陀観音大勢至、大願の船に乗じてぞ、生死の海にうかみつつ、有情を呼ぼうてのせ給う』。
と仰せられてある。


 この御和讃は、一応は誠に解り易い御話しのようであるが、再応考えて見ると甚だ解らんことがある。その訳は、弥陀観音大勢至は御助けの人、大願の船が御助けの法、生死の海は我等の迷界。そこで海中に溺れておる人を、助け船に救い上げて下さるることに譬ての御聞かせであるから。いかにも明瞭のようではあるが。有情を呼ぼうて乗せ給う、というに至りては種々の不審がある。
 
 
 先ず第一に、溺死するものを救済するという場合に於て、急に船をさしよせずして、向うにいて呼ばわりて御座るとは、余りに暢気の話しではあるまいか。
 
 
 第二には溺れた人がその呼声を聞いて、有り難いと思うても、嬉しいと思うても、何んの所詮はないことで。事実船の中へ引上げて貰わねば、助かることは出来ぬのじゃとして見ると。呼んで御座るがいよいよ解らん。
 
 
 第三には、海に溺れたその人が、呼声聞いてアア助け船が来てくれた、ヤレ嬉しやなどと思うておることの出来るものならば、海の面に平然と浮ておる人のすることで。その様の人ならば、助け船は行かずとも、或場合には何処かへ泳ぎつくことの出来る人に違いない。真実水中に苦み悶えている人には、呼声などの聞こえるものでもなし。よし聞こえたところで、歓喜の安心のというような、思想の起るべき道理はない。ソモ呼声は何の為かという、大いなる不審は皆様に起りませぬか。皆様は海の上へ座布団でも敷てすわっていて、向うから来る助け船の呼声を聞いて御座るというような。平気の聴聞をしていて下されては、真実の極致はしれませんぞ。
 
 
 私は明治二十九年の夏、京都にいて、亡学師智治心寂君と、暑中休暇を利用して、十三歳になる宿の息子を引連て。三河国宮崎という浜へ、海水浴に行ったことがある。太平洋は日本海と違うて、潮の差引が非常に多い。干潮の時に一丈余りも出ている岩が、満潮の時には皆かくれてしまう。その満潮のさかりに、海に入ろうとしたところが、十三の息子も入ろうというので。この息子泳ぎを知らぬゆえ、甚だ危険と思い。私は岸の岩の程よき所を調べ、サアお前はここにおるのじゃ、此処から離れると死んで仕まうぞといい聞かせ。私は智治君と五十間計りの沖にある、岩を見かけて泳いで行った。
 

 さてその岩に到着て振返って見たところ、アラ大変よ息子が岩をふみはずし、もぐったり出たり苦しんでいる。その時私は阿弥陀如来の真似をして、西岸上に立上り。我を一心に頼め、必ず助けるぞ、と呼ばわりてなどいたものならば、息子は忽ち死んで仕まうのじゃ。この場合に於て、呼ぶも聞かせるもあるべきや。夢中になりて。智治君と共に泳いで来て、その息子を助けてやった事がある。
 
 
 さあ皆様、この事実に照して、この御和讃を味おうて見て下され。阿弥陀如来は大急ぎに、我等を船の中へ救い上げて下さらずして、何故に呼んで御座るのでしょう。暢気の話しにも程がある。ここで或人の話しには、御助けを知らせる為に呼んで下さるのじゃという。それではいよいよおかしい、溺れた人に御助けの意味を知らせねば、助けられぬという訳はあるまい。溺れた人は半死半生で、御助けの意味は知らずとも、船に救い上げて仕まえば、目的は達せらるるのじゃ。是は前にも申したことで。河に流れて溺れて沈むその人を、救う船から呼掛て。その溺れた人の受け心や、安堵の出来不を、見てから助けるという船ならば。助け船とは申されぬ、それこそは殺し船というものじゃと。ここまで話しを進めて見れば、阿弥陀如来が有情を呼ぼうてのせ給う、というが実に解らん話しである。

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以名摂物録(松澤祐然述)「27 呼声と船」 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

元本をご覧になりたい方は下記リンク先を参照下さい。

以名摂物録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

以名摂物録

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