安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「何故、人間の理解を越えた南無阿弥陀仏を疑いなく聞けている人達がいるのですか。」(武さんのコメントより)

2014/12/17 21:09
南無阿弥陀仏は私を助ける仰せであると聞いて疑いないのが信心と言いますが、私は疑ってしまいます。
そもそも、浄土も輪廻も阿弥陀仏も実感できない人間に南無阿弥陀仏を疑いなく聞く事は無理だと思います。無理して疑わないようにする事しかできません。
しかし何故、人間の理解を越えた南無阿弥陀仏を疑いなく聞けている人達がいるのですか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20141217/1418804600#c1418818165

武さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

武さんが、「南無阿弥陀仏を疑い無く聞くのは無理だ」と思われるのは、「現在の自分がそうだから」ということではないかと思います。確かに、阿弥陀仏の本願を信じられない理由は、考えていけばコメントに書かれたもの以外にもいろいろでてきます。
「目に見えないものをどうして信じられる」「言葉だけでなぜ信じられる」などいろいろあります。私も、南無阿弥陀仏のいわれを聞いた最初は「そんな仏様がいるそうだ」ぐらいにしか思えませんでした。


しかし、南無阿弥陀仏を聞いて疑い無いということは、自分の手で疑いを解消していくことではありません。また、疑い無いというのは、理解出来たとか納得したことでもありません。「ただ今助ける」の南無阿弥陀仏に疑いはありませんが、だからといって南無阿弥陀仏が分かるようになったのではありません。

親鸞聖人も、真実信心について

ただこれ不可思議不可称不可説の信楽なり。(教行信証 信巻)

と言われています。「信楽」とは、本願を聞いて疑いないことですが、それは不可思議であると言われています。不可思議というのは、コメントの言葉でいうこ「人間の理解を越えた」事です。


つまり、「聞いて疑い無い」親鸞聖人が「不可思議」と言われるのですから、「理解した」と「聞いて疑い無い」は違います。


どうしても疑ってしまう、我が計らいを南無阿弥陀仏に交えないというのが、聞いて疑い無いということです。「ただ今助ける」の南無阿弥陀仏は、私がどう思っても、そのお働き自体は動かしようがないものです。南無阿弥陀仏は、私を助けるようになっている法です。例えば、光は闇を照らします。それは、そういうようになっているものであって、私が認めようが認めまいが、光はそういうはたらきをもっているから光と言われます。同じように、南無阿弥陀仏は、私が分かろうが分かるまいが、「ただ今助ける」はたらきをもっているから、南無阿弥陀仏と名乗られているのです。


闇は、光によってしか破られないように、「聞いて疑い無い」というのも、南無阿弥陀仏によってのみそうなります。阿弥陀仏に救われた人になにか、武さんと違うものがあるから救われたのではありません。聞いて疑い無い人は、南無阿弥陀仏を聞いているからです。こういうと同じところをぐるぐる回る話のように思われるかもしれませんが、疑いは南無阿弥陀仏によってしか晴れません。ただ今救うという仰せをそういうものとして聞き入れてください。無理にそう思おうとしなくても、ただ今救うように働いているのが、ただ今の南無阿弥陀仏です。