安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「ただ今から見れば、後生はあくまで未来のことではないでしょうか。もっとも、その後生を問題にしているのは、「ただ今」であるとは思いますが。」(さとしさんのコメントより)

さとしさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

さとし 2014/12/09 06:23
>「後生とは後に来るべき生涯」との意味です。そこで、それを私が「ただ今のこと」と書いたのは、それは当事者にとってはいつでも「ただ今」のことになるからです。生と死が全く別のことではないように、今生と後生も全く別のものではありません。「いつ」後生となるのかと言えば、「そのうち」ではありません。「ただ今」のことです。

「死は人が生まれた時から、その背中にはりついている」「人は生まれた時には、既に死ぬのに十分年をとっている」「生と死は、コインの裏と表のように一体となっている」。
正確ではないかもしれませんが、このような言葉を聞いたことがあります。どの言葉も、人はいつ死んでもおかしくない、生は常に死と隣り合わせだという意味だと理解しています。
 しかし、生と死にははっきりとした区別があると思います。死は背中にはりついているが、今は生きている。死ぬのに十分年をとっているけれども、今は生きている。コインの表は表であって、裏ではない。裏は裏であって表ではない。生きているときは、まだ死んでいない。死んだときには、生きていない。はっきり区別されるものがぴたりと隣り合っている。そういうことも言えると思います。。
 そして、いつ死んでもおかしくないから、今生がいつ終わってもおかしくない。ということは、いつ死んで今生が終わり(転生して)後生が始まってもおかしくない。現在ただ今は生きている。こうしてyamamoyaさんのブログにコメントしているときは生きている。しかし一瞬のち、たとえば巨大隕石が降ってきて直撃、即死ということもありえないことではないわけで、今生はいつ終わってもおかしくないわけです。それでもそれは「ただ今」の一瞬のちのこと。現在ただ今は今生であって、後生ではありません。
 それとも、こういうことでしょうか。時間というものは、「今」の連続だ。今、今、今、今…。したがって死ぬということも未来に起こるのではなく、実際に起こるのは「今」だ、今生が終わって後生が始まるときも、その時は「今」だ、と。
 生死に迷っているのは「ただ今の私」というのはよくわかります。ただ今生死に迷う私を、ただ今浄土に往生する身に救ってくださるのが、阿弥陀仏の救いだというのもわかっている
…つもりです。しかし現在ただ今から見れば、後生はあくまで未来のことではないでしょうか。もっとも、その後生を問題にしているのは、「ただ今」であるとは思いますが。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20141208/1418027383#c1418073824

以前のエントリーで、生死は別のものではなく、生死一如だということを書きました。

お釈迦さまは、そのような生と死は、本来別々のものではないのだと教えられました。生と死を一望する境地に立って「生死は二つの別々のものではない。生死一如が本当なのだ」と教えられました。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20141130/1417294445

さとしさんが、「生と死にははっきりとした区別があると思います」と言われていることが、「虚妄分別」の生み出した「そらごとたわごと」であって、「真実」ではないとお釈迦さまは教えられています。

その「生死には、はっきりとした区別がある」と思っている状態を「生死」といわれます。それが「迷い」です。そこから出るというのが、親鸞聖人の「生死出ずべき道」です。さとしさんが言われる「生死には、はっきりとした区別がある」と思ったまま生死を繰り返すことを、後生の一大事と蓮如上人は仰いました。つまり、「死んだ後だけ一大事」ではなく、生死に迷っているただ今の状態が一大事なのだということです。ですから、「生きている今はそれほどでもないけれども、死んだ後に大変なことが起きる」と思うのは間違いです。阿弥陀仏の目からご覧になれば、さとしさんが、人間として生きていようが、それ以外の衆生として生きていようが、いずれにしても「生死から出られない状態」に違いはありません。

そのような「生死」に迷っている「ただ今」は「後生の一大事」とともに有ります。その「生死」を離れて、そこかさ出させるというのが阿弥陀仏の救いです。

(7)
生死の苦海ほとりなし
 ひさしくしづめるわれらをば
 弥陀弘誓のふねのみぞ
 のせてかならずわたしける(高僧和讃)

http://goo.gl/E0GqBE

と言われる通り、「生死の苦海」に久しく沈んでいく私を救って下さるのは、「弥陀弘誓のふね」(阿弥陀仏の本願の救い)しかありません。


さとしさんが、続けてコメントをされるのは「現状でまったく不足はない」と思っておられないからではないかと思います。そのように「今のままではよくないのではないか」「なにか自分が知らない真実があるのではないか」と思われるのは、浄土という真実を知らせようとする本願力のお働きによるものです。


真実からの働きかけにより、現状の虚妄をしらされ、真実が知りたいと思われるままが、浄土を願う心なのです。さとしさんが、真実を知りたいと思われる通りに、真実浄土はさとしさんを常に呼び覚ますべく呼びつづけておられます。