安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「浄土に往生すれば、生きること、死ぬことの意味がわかるということなのでしょうか。生きること、死ぬことの意味とは何かということは大きな問題で僕も関心がありますが、それはこの世では知ることはできず、浄土でしか知ることはできない。たとえ死んだ後であってもそれを知りたいから、そのために浄土に往生する。そういうことなのでしょうか。それとも、今、生きているのは、浄土に往生するために生きているのであり、死ぬということは浄土に往生することだと思い定めなさい、という話なのでしょうか。」(さとしさんのコメントより)


さとしさんよりコメントを頂きました。

さとし 2014/11/29 04:00
2つ質問をさせてください。
 前半について。yamamoyaさんは、六道輪廻というものを本気で信じておられるのですか? こんなものは、現代日本においては過去の遺物であると思っていました。
 後半について。迷っているということは、生きること、死ぬことの意味もわからない状態だと言われていますが、浄土に往生すれば、生きること、死ぬことの意味がわかるということなのでしょうか。生きること、死ぬことの意味とは何かということは大きな問題で僕も関心がありますが、それはこの世では知ることはできず、浄土でしか知ることはできない。たとえ死んだ後であってもそれを知りたいから、そのために浄土に往生する。そういうことなのでしょうか。
 それとも、今、生きているのは、浄土に往生するために生きているのであり、死ぬということは浄土に往生することだと思い定めなさい、という話なのでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20141128/1417163806#c1417201238

最初の質問の六道輪廻については、お釈迦様が教えられていることなので、そのとおりと受け止めています。


次の質問ですが、浄土往生すれば、生きることの意味も死ぬことの意味もわかります。厳密に言えば、浄土往生してからですが、生きている間もある程度はわかるようになります。


その説明をこれからしていきます。
まず、なぜ私は生きることの意味、死ぬとこの意味が分からないのでしょうか?そもそも、私は生きるということも、死ぬということもよく分かっていません。


例えば、辞書で「生きる」「死ぬ」を引くと以下のようなものです。

いきる【生きる】
(動カ上一)《文カ上二いく》
(1)人動物などが命を保つ。生存する。 ↔死ぬ。「百歳まで―きるつもりでいる」「羊は牧草だけを食べて―きている」
(出典:スーパー大辞林)

しぬ【死ぬ】
(動ナ五)《文ナ四ナ変しぬ》
(1)呼吸や脈がとまり,命がなくなる。 ↔生まれる。「寿命をまっとうして―ぬ」「病気で―ぬ」「―んだ気になれば何でもできる」「命―ぬべく恋ひ渡るかも」〈万葉集599〉
(出典:スーパー大辞林)

平たく言えば「生きる」とは「生きていること(死んでないこと)」であり、死ぬとは「死んだこと(生きていないこと)」の意味でしか書かれていません。実際の、生きるとか死ぬということは、上記の意味でしか捕らえられないのが私の実態ではないでしょうか?


そこに何か意味を見いだすとしても、それは難しい注文です。なぜなら、私は生きることを「まだ死んでない」こと、死ぬことを「もう生きていない」ことぐらいにしか考えることができないからです。


よって「まだ死んでない」という「生きる」に意味をなにか見いだそうとしても、死ぬことによってその「生きる」は無くなってしまいます。いわゆる「生き甲斐」といわれるものが、何となく空虚な響きがあるのは、生きているという前提で語られるものだからです。「生きている間の生き甲斐」は、死によって壊れます。


そういうことから「生きるといってもただ死ぬまでの間の期間のことであり、そこに意味などない」と厭世的な考えを持つ人もいますが、お釈迦さまはそうは教えておられるのではありません。


そこで、お釈迦さまは、そのような生と死は、本来別々のものではないのだと教えられました。生と死を一望する境地に立って「生死は二つの別々のものではない。生死一如が本当なのだ」と教えられました。


そこで、一如とはどういう意味かを浄土真宗辞典から紹介します。

いちにょ 一如
一は絶対不二の心。*真如のこと。さとりの智慧によってとらえられたあり方で、すべての存在の本性が、あらゆる差別の相を超えた絶対の一であることをいう。

浄土真宗辞典

浄土真宗辞典

しんにょ 真如
梵語タタター(tatha=ta)の意訳。かくあること。衆生の虚妄*1分別を超えた存在のありのままのすがた。形相を超えた絶対究極のありかた。すべての存在の本性が、あらゆる差別的な相を超えて絶対の一であることをいう。真如法性・真如実相などともいい、法性、実相、一如などの異名としても用いられる。
(浄土真宗辞典より)

これが、生死一如の「一如」の意味です。つまり、生と死について私は全く別物であり、生きるとは「まだ死んでいない状態」「やがて死に直面するのが私である」との考えは間違いだと教えられています。ここで「生死一如」とお釈迦様が仰ったのは、生死の本来の姿は全く別のものではなく「絶対の一である」と言われています。生と死を別のものとして捉えて、その中で生きる意味、死ぬ意味を考えるからわからないのだと教えておられます。


そこで、「いや、私が見る限りは生と死は別のものとしか思えない」と言われる方もあるかも知れません。しかし、それは私の「虚妄分別」を通して見たものであるというのがお釈迦さまの教えです。例えば私が「この世界」と思っている物も、人に依って見方は変わります。


それは、私が目で見たり、耳で聞いた世界か本当の世界ではないということです。例えば目で見えた風景にしても、人間の目と、暗視カメラでは見える世界が違います。さらに言えば、人間と、鶏、アリの目で見る世界は全くことなります。それらの違いは、それぞれの境界の違いによって起きるものです。


例を挙げると、同じ人間同士でも、甘いものが好きな人がケーキ屋に行く場合と、甘いものが苦手な人がケーキ屋に行く場合は全く違います。甘いものが好きな人にとってみれば「ケーキ屋」は宝の山ですが、甘いものが苦手な人にとってみれば、「苦手なもの」が陳列されいるにすぎません。では、「ケーキ屋」が「宝の山」なのかそうではないのかは、それぞれの考えによって異なります。「宝の山」というのも、その人の虚妄分別によってあらわれたものに過ぎません。


まして、外の動物が見る見え方と比較すると、私がみる世界が「本当の世界」ではないことが分かると思います。そこで、生死についても「私がこれか生、これが死」と考えていることは、私の「虚妄分別」というフィルターを通したものであり、そのフィルターを外してみると、生と死というのは、個別に分けられるものではなく、「すべての存在の本性が、あらゆる差別的な相を超えて絶対の一であること」のだと教えられています。これを生死一如という言葉の意味です。


生死を別のものとしてとらえ、その中で生きている限りはものごとの本当のありようはわかりません。その生と死を離れて、それらを一望する境地から私達に生死を離れたところに真実のもののありようがあることを教えられたのがお釈迦様です。その真実を「一如」とか「真如」といいます。


すべてのものが個別的に離れたものではなくありのままで「あらゆる差別的な相を超えて絶対の一である」ことであることを告げられるのが、浄土です。ですから、親鸞聖人も、浄土については「真実功徳相」と教えられています。つまり、「浄土」とは「どこかにある理想郷」ではなく、私たちに真実(真如)の有り様を示して下さることなのだと言われています。その「浄土」に「往生する身になる」のが「浄土真宗の救い」です。


そこで、浄土往生が定まるということは、死ぬということが虚しくこの生命が終わることではなく、またこの人生が消滅することではなくなってしまいます。


死が浄土に往生し、前述した本当のものの有り様があらわされる境涯に出させて頂く契機となります。ですから、「往生」と言われます。つまり、「死」とはお前が思う「死」ではないのだ、真実を知らされる世界が開けて、そこに生まれるのだということが「往生」です。「死んで生まれる」のではなく、「私の考えた死」は「私の虚妄分別が生み出したもの」であって本来存在しないのだと教えられるのが「往生」ということばです。つまり「貴方は死ぬのではない、真実に生まれるものなのだよ」ということてす。


実際、親鸞聖人にとっての死とはどういうものだったのかを、親鸞聖人のお手紙から紹介します。(親鸞聖人御消息より)

 なによりも、去年・今年、老少男女おほくのひとびとの、死にあひて候ふらんことこそ、あはれに候へ。ただし生死無常のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候ふ。まづ善信(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず、信心決定のひとは、疑なければ正定聚に住することにて候ふなり。さればこそ愚痴無智の人も、をはりもめでたく候へ。如来の御はからひにて往生するよし、ひとびとに申され候ひける、すこしもたがはず候ふなり。
(親鸞聖人御消息16通 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P771)

http://goo.gl/ZZiBaf

これはお弟子に対する手紙ですが、その当時大変な飢饉があり、多くの人が亡くなられました。そこで、多くの人が亡くなられたのは大変可哀相なことだと言われています。しかし、生死無常の道理を仏様からお聞かせ頂いている上では、驚くべきことでではないと言われています。そこで、親鸞聖人ご自身の身の上から言えば、臨終のありさまを問題にはしない、阿弥陀仏にすくい取られた人は、阿弥陀如来の計らいにより必ず浄土往生が定まっているのだから、どんな人もその人生を目出度く終わるとこができるのである。また、そう人に言ってきたことに少しも違いはないと言われています。


ですから、本当の意味での「真如」「一如」を知るのは、浄土往生を遂げてからですが、生きている間も、自分の「死」が単なる「生が終わったこと」ではなく、真実の世界に目覚めるご縁となります。そこで、「死ぬこと」に大変有り難い意味が出てきます。真実に目覚めさせていただくまでの人生もまた、有り難い人生となるのです。その意味で「生きる意味」というのも出てきます。

その意味で「生きる意味を知りたいから浄土に往生する」のではありません。「生きる意味、死ぬ意味という真如から、虚妄分別を突き抜けて真如を知れ」と呼びかけられるのが阿弥陀如来の救いです。その阿弥陀如来の救いよよって、本当に真如に目覚める身になるのは浄土往生ですが、その浄土往生が定まったことを信心決定とか、真宗の「救い」と言います。

それとも、今、生きているのは、浄土に往生するために生きているのであり、死ぬということは浄土に往生することだと思い定めなさい、という話なのでしょうか。(さとしさんのコメントより)

浄土に往生するということは、前述した通りです。虚妄分別の世界を離れて、真如の世界に出るのが「浄土に往生する」ということです。その意味で、貴方が「死ぬ」ことは「消滅」ではなく、「浄土という真実に虚妄分別を離れて目覚めること」なのですと言うことです。それを告げる言葉が、南無阿弥陀仏なです。南無阿弥陀仏とは、浄土真実より、「虚妄分別を離れて我が浄土(真実)に生まれよ」と告げるお言葉です。


こう聞いて「?」と思われるかも知れません。しかし、これが阿弥陀仏の本願であり、南無阿弥陀仏の謂れです。ただ救う本願ですから、ただ今救われて下さい。

*1:うそ、いつわりのこと。真実でないこと