前回の続きです。
6 信心諍論の所詮
受けた心地を信心とするのが、定散諸機各別の自力の人の決着で。貰った心地にかかわらず、受けた品物を信心と定めるのが、如来利他の信心に通入したるところにて。この辺の決着を、明らかにして下されたが、御伝鈔上巻の第七段、信心諍論の一段で御座いましょう。正信房や勢観房は、もらい心でりきんで出て。
「善信房の、聖人の御信心とわが信心とひとしと申さるることいはれなし、いかでかひとしかるべき」
なんで変わりがあろうかや、
「などかひとしと申さざるべきや。そのゆゑは深智博覧にひとしからんとも申さばこそ、まことにおほけなくもあらめ」
御師匠法然上人の、智慧や喜びの受け心と。この懈怠だらけの善信の、貰った心地が同様じゃと申したことなら。それこそ申し訳のないことなれども、貰った品の信心にいたりては。一度他力信心のことわりを、承りしよりこのかた、全く私なし。然れば、御師匠の御信心も、他力より給わらせたもう、善信が信心も他力なり。かるがゆえに、等しくして変わるところは決してないぞと。一歩も引かぬ聖人の御決着は、貰った六字を信心としての御沙汰である。
その時一間の陰にましました、御師匠の法然上人。正しく仰せられてのたまわく、
「信心のかはると申すは、自力の信にとりてのことなり。すなはち智慧各別なるゆゑに信また各別なり。」
大人の貰った喜びと、子供の貰った喜びと、智慧各別なるがゆえに。受けた心地はまちまちで、それを信心と思うのが、自力の人の言うことじゃ。
「他力の信心は、善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまはる信心なれば、源空が信心も善信房の信心も、さらにかはるべからず、ただひとつなり。」
との御判決。全くわが祖聖人の勝ちとなったは、負けた勝ったの手柄話をするのではない。受けた心地をあてにして、参るつもりにしていても。それは定散諸機各別の、自力の信であってみりゃ。哀しや我が参らん御浄土へは、よも御参り出来ぬゆえ。受けた心地の相談やめて、貰った六字の御相が、如来利他の信心なれば。祖師聖人の御信心も、御座の我らの信心も、更に変わりのあらばこそ。変わらぬはずよ貴方より、揃いに仕立て成就して、譲り与えて下された。六字一つは金剛不壊。変わり通しの私が、変わらぬまことを頂いて。変わらぬ浄土へ参れるも、変わらぬ回向の信力ぞと。知らせてやりたい計らいにて。よくよく心得らるべき事なりと云々。
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以名摂物録(松澤祐然述)「7 受け心と信の一念 」 - 安心問答(浄土真宗の信心について)
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