安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

どのようにしたら仰せに従えるのでしょうか。どのようになることが仰せに従うということなのでしょうか。(GTさんのコメントより)

GTさんよりコメントを頂きました。また、たかぼーさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

GT 2014/09/17 06:54
どのようにしたら仰せに従えるのでしょうか。
どのようになることが仰せに従うということなのでしょうか。

今回の記事を読ませていただき思うのは私の感情など救いとは関係ないということなのだなと。
でも、私が救いを求めるのは、今の自分の心の寂しさ、つらさ、悲しさ、不安からです。
私のそんな思いで、阿弥陀様の救いを求めるのは、土台、間違ってるのですね(T_T)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140916/1410858487#c1410904493

最初に、GTさんが救いを求める動機そのものは間違っていません。阿弥陀仏の救いを求めるきっかけは一人一人違います。こういう動機でなければ聞いてはならないといったような狭い救いではありません。
ただ、前回のエントリーにも書いたことは、救いそのものを聞き間違ってはならないということです。それは、救われた結果として心の寂しさ、つらさが和らぐことがあってもそれは、救いそのものではなく、救われた結果の利益の一つです。いわゆる救いを米とすると、心が和らぐというのは藁のようなものです。米を収穫したら藁はついてきますが、あくまでも求める救いは米であり、生死を離れて浄土往生し仏となることです。

しかし、藁をもとめているものは救わないというような阿弥陀仏ではありません。「そんな思いで阿弥陀仏の救いを求めるのは間違っている」と一人合点はしないでください。なんのために阿弥陀仏は五劫思惟され、兆載永劫の修業をされて本願を成就されたのは、ひとえにGTさんのためなのです。GTさんが外れているということは、あるはずもないことです。


そこで、

どのようにしたら仰せに従えるのでしょうか。

についてですが、「こうしたら従えるだろう」との考えはやはり、自分を先にして、先手の本願をあとにしている考えです。言い替えたら、「どうしたら自分は阿弥陀仏の仰せに合わせることができるのでしょうか」と言っているようなものです。自分からあわせるのではなく、自分に合わせて下さっている仰せだと聞いて従うことです。

ご和讃にも、自分からあわせるのでなく、阿弥陀仏の本願の船の方から乗せてくだされると言われています。

(7)
生死の苦海ほとりなし
 ひさしくしづめるわれらをば
 弥陀弘誓のふねのみぞ
 のせてかならずわたしける(高僧和讃)

「のせて」下さるのですから、私の造作は必要ないということです。阿弥陀仏はただ「乗せる」と言われているだけです。その仰せに従うだけです。「○○したら乗せてあげます」と阿弥陀仏がいわれないのに「どうしたら」と言っているので仰せに従わないのです。

また

どのようになることが仰せに従うということなのでしょうか。

と言われていますが、阿弥陀仏の仰せにないことをあれこれいわなくなったといいますか、いうことがないのが仰せに従ったということです。反対に、仰せに従っていない時は、「ただ今救う」と言われても「いつですか?」と考え、「そのまま救う」と聞いても「で、どうしたらいいんですか?」と考えます。それらは救われたいという私の思いこそ先にあり、阿弥陀仏の本願が後からできたように思うからです。すべて、阿弥陀仏の本願が先手の法です。「弥陀弘誓のふね」はすでに完成しています。それに「乗せる」といわれる阿弥陀仏の仰せに従うかどうかであって、そこには動機や自分の思いは関係ありません。

「乗せる」の仰せにしたがってください。それが阿弥陀仏の救いであり信心です。