アドウチ 2014/08/26 09:58
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140825/1408958644#c1409014715
自分の心を詮索せず本願に向きなさいと以前からよく聞いておりますが、「本願に向く」ということが漠然としすぎてわかりません。本願に向くとはどういうことなのでしょうか?
本願に向くとは、御一代記聞書にある言い方でいうと「その篭を水につけよ」ということです。
(88)
http://goo.gl/qx05Cf
一 人のこころえのとほり申されけるに、わがこころはただ籠に水を入れ候ふやうに、仏法の御座敷にてはありがたくもたふとくも存じ候ふが、やがてもとの心中になされ候ふと、申され候ふところに、前々住上人(蓮如)仰せられ 候ふ。その籠を水につけよ、わが身をば法にひてておくべきよし仰せられ候ふよしに候ふ。(御一代記聞書88_ 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版)
アドウチさんのコメントでいう「自分の心を詮索」することは、上記の御一代記聞書では自分の心を篭に例えてその篭の中に水が入らないことを悩んでいるようなものとして言われています。それは、法話を聞いたり、念仏したり、お聖教を拝読するのは一生懸命自分の心という篭に水を注いでいるつもりでいるからです。ですから、本願という水が自分の心という篭にどれだけ入ったかを確認したくなります。もし、篭が水であふれた状態になれば本願を聞いたということにしているのだと思います。だから、自分の心という篭に水がない状態を御一代記聞書の人は悩んでいます。確かに私もそのように思っていた時があります。しかし、それは法をわがものとしようと試みているだけなのであり、法そのものに形がない以上は所有はできません。
法がどれだけ所有できたかと自分の心の詮索をしても、それによっていつの日か心が法で満たされることはありません。
では本願に向かうことを御一代記聞書ではどう言われているかというと「その篭を水につけよ、わが身をば法にひてておくべき」と言われています。
本願に向かうとは、どこか特定の方角を向くことではありません。それは、法は私を取り囲み常に私に向かって働いて下さることを知ることです。なぜなら、阿弥陀仏に向くと言っても、自分の心の中に、あるいは法話の場所に阿弥陀仏を探しても、どこか特定の場所におられる阿弥陀仏ではないからです。
阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏となってこの私に向かって常に働いて下さっています。それは私の半径数メートルというようなものではありません。私がどこにいても、いつでも南無阿弥陀仏が働いてくださるのは、この私のいる世界で南無阿弥陀仏のない場所が存在しないからです。
どこかにおられるのではなく、この私のいる世界に遍くそのお働きがあり、しかも私一人にむかってよびかけられている南無阿弥陀仏と聞くということが、「本願に向かう」と言うことです。