安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「自分は善人か、悪人か」「救われる人か、救われない人か」と考えてしまいます(頂いた質問)

「自分は善人か、悪人か」「救われる人か、救われない人か」と考えてしまいます(頂いた質問)

このように考えるのは適切とは言えません。なぜなら、阿弥陀仏の救いを善悪という視点から見ているからです。最近のエントリーで「平等の慈悲」ということについて書きました。


阿弥陀仏の慈悲は「平等」と言ったときの「平等」は、仏教で言うところの平等です。善悪の話でいうと、この二者はいわゆる平等には成りません。


善悪という軸で考えると、「善」は推奨すべきものであり、やるべきものとなります。反対に「悪」は抑止されるものあり、やってはいけないものとなります。その善をなす善人と、悪をなす悪人を平等に救うとなると、善と悪が平等ということになってしまいます。そうなると、「やるべき善」と「やってはいけない悪」が等価のものということになり、私たちの善悪で考える頭では全く理解できない話となってしまいます。

法然聖人が、聖道仏教の学者から批判を受けた理由はのは上記のものが一つです。
また、実際に法然聖人は念仏を大善根と言われています。

いはく雑善はこれ小善根なり、念仏はこれ大善根なり。(選択本願念仏集)


しかし、この表現ですと、前述したように念仏も善悪の範疇での話となってしまいます。それを聖道仏教の学者たちも批判しました。


そこで親鸞聖人は、念仏については「真実」でありと言われました。
教行信証行巻の最初にこう言われています。

諸仏称名の願 浄土真実の行
選択本願の行
(教行信証行巻)

第十七願(諸仏称名の願 )に誓われている称名は、「浄土真実の行」であり「選択本願の行」であると言われています。
「真実の行」といわれたのは、この南無阿弥陀仏は、善悪を超越した行であるということです。人間の上での善悪を超越しているからこそみな等しく救ってくださる平等の救いがあるのだということを親鸞聖人は明らかにしてくださいました。

「自分はどちら側だろう?」と、自分を分別する必要は全く有りません。そのような分別を超えた救いが南無阿弥陀仏の救いです。ただ今救われてください。