安心問答(浄土真宗の信心について)

浄土真宗の信心についての問答

「救いとなると、如来が救いを与える以外に自分で助けらしきものを見つけているような気がします。自分の側に助けや救いがあって信心がなくても救われると自己過信しているのはなぜでしょうか?」(1chさんのコメントより)

エントリーを書くのが遅くなり、1chさんのコメントのなかで後半の部分について書きます。もし、前半の部分についてなにかあれば、またコメントをお願い致します。

1ch 2013/10/20 19:12
助からないということを理論として知りませんでした。
自分のために如来が信心を与えるというのなら、自分に信心はないのかもしれません。自分には信心がないということに納得しました。
自力疑惑へとどめをもらうために質問させてください。

助からないという実感や危機感が湧かないから「まだなんとかなる」「助けなどいらん」と考えています。
上の信心のところと同様に考えるなら
自分のために如来が救いを与えるというのなら、自分に救いはないのかもしれません。
と合点できるはずなのですが、自分には救いがないということは分かりません。救いとなると、如来が救いを与える以外に自分で助けらしきものを見つけているような気がします。
自分の側に助けや救いがあって信心がなくても救われると自己過信しているのはなぜでしょうか?

自分の望むことの叶わない(自分の助けが通用しない)ということが自他の環境に起きているから苦しいという認識で自分はいます。
そんな自分にも自分の助けの通用しなさそうな浄土というところが勧められています。如来は自分1chの望むようには自他を変えてくれません。

自分の助けはこの状況に合わせた現実的な助けだと思います。自他を自分の望むように変えようとする助けだと思います。
この状況に合わせた有限な助けのはずなのに、「浄土に来たれ」という助けより有用なように思えてしまいます。
そのため「浄土に来たれ」という救いには次のように思ってしまいます。
浄土へ自分で行こうとしても行けない、自分の助けが通用しない、浄土は自分の助けの及ばない場所、(自分の助けの及ぶかもしれないという)ここの延長にあるわけではなさそう、浄土へ行くならここの影響を残すことができない、苦しみに為すすべあるということも失う、苦しみに対して為すすべあるということを手放す訳にはいかない、手放して浄土に行きたくない、…
自分に救いはなく助けもないと思うことができず、自分の側に救いの可能性や助けがあると思えてしまうのはなぜでしょうか?信心決定していないのは確実なのに助からないという実感が鈍ってしまうのはなぜでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20131019/1382169778#c1382263975

1chさんのコメントについて、受けから順に書いていきます。まず最初に、危機感の有無は救いとは関係ありません。なぜなら、「危機感の有無」を問題にすると「どの程度の危機感を感じることができたら救われるのか?」の線引きがどこかで必要になるからです。「ここまでの危機感の人は救われない」と、救いに制限を設けるような本願ではありません。


そこで「救い」とは何かについて、書きます。
阿弥陀仏の「救い」とは、自らの力では生死を離れることができない私を浄土に往生させ仏にすることです。救いの本質は「仏にする(なる・成仏)」ことですから、その点で1chさんに「救い」がないのはその通りです。仏に成るには本来、絶対に自ら仏に成りまた全ての人を救うという菩提心をおこして、三祇百大劫の修行を継続しなければ仏に成ることはできません。これは、因果の道理ということからいっても曲げられないことです。失礼ですが、コメントの文面から拝察しますと1chさんにはそれだけの菩提心があるようには思えません。

自分の側に助けや救いがあって信心がなくても救われると自己過信しているのはなぜでしょうか?

「救い(成仏)」の為に、どれだけの菩提心と修行期間が必要であるかを真面目に考えたことがないからです。こう言っては身もフタもありませんが、1chさんが一生涯今の調子で悩んだところで成仏という救いには到達できません。自己過信と書かれていますが、文字通り自惚れということになります。

その意味で、1chさんの言われる『助け」とは、どうも「成仏」とは異なるように思いますが如何でしょうか?

自分の助けはこの状況に合わせた現実的な助けだと思います。自他を自分の望むように変えようとする助けだと思います。

これはただ、貴方が思った通りに生きていきたいという我欲を満たすことをいわれているように思いますが、違うのでしょうか?

自分に救いはなく助けもないと思うことができず、自分の側に救いの可能性や助けがあると思えてしまうのはなぜでしょうか?信心決定していないのは確実なのに助からないという実感が鈍ってしまうのはなぜでしょうか?

貴方のいわれる「助け」が何なのかを、もう一度書いて頂けないでしょうか?
浄土往生し仏になることと、「自分の救い」は同じなのでしょうか?それとも違うのでしょうか?


このエントリーを公開するまでの皆さんのコメント(抜粋)

おじch 2013/10/20 04:17
>南無阿弥陀仏の働きは無限である。ただし自我の計らいがあるとこの身にわずかに働くことはあっても自由に働くことはない。わずかに働く程度では自我の悪い働きを抑制する(良心をいただく)程度で、浄土往生まではかなわない。
このように考えています。


「無限である」と自分で言いながら、その口で「この身にわずかに働く」と自から仏力を殺ぐことを言う。
計らいどころではない、仏力など全く信じちゃいないんですよ、あなた。
「自我に悪い働きを抑制する 」のは、あなた自身ですよ。「弥陀の本願に自分はかなうんだ」と頑張っているのです。
それを自力というのです。浄土往生の妨げの本命です。どの仏様も見捨てたというシロモノです。

でも大丈夫。
仰る通り、南無阿弥陀仏の働きは無限ですから。自力を破り必ず1chさんを救い給うのです。
どんなに辛くとも 南無阿弥陀仏 です


1ch 2013/10/20 09:17
私の手助けが必要というと私は有用で有益な者ということになると思います。
手助けというよりは私というのは阿弥陀仏の救いを妨げる障礙というように思っています。
私は我(わがまま)そのものであるけれど、そんな私であっても阿弥陀仏の働きは届いていて、それが私の良心や思いやりとなって表れているという解釈です。
または
私の働きとしてはどうしても自己中に自分の都合へ凝り固まってしまうけれど、阿弥陀仏がより大きな働きとして働くことで、自己中な私にも自己中以外の行動が可能になっていると考えています。

指摘された通り自分ではこう考えているものの、無限である阿弥陀仏の働きをどうして私1chが妨げることができるのかという疑問が生まれました。
私に妨げられる阿弥陀仏の働きはなぜ無限なのでしょうか?理論的には有限が余ろうと無限は無限かもしれないのですが、有限の中にまで無限に働くことができれば私はすでに救われているのではないでしょうか?
私は救われていないので有限の中にまで無限に働くことはできないと推論しました。無限に働くことのできないところを有する無限は無限といえるのでしょうか?
考えが混乱してきたので言い換えます。
「そのまま受け容れる」ということがすんなりとできない衆生もいるということも阿弥陀仏は知っていたと推察します。それでも私の側の状態にお構いなく無理やり救ってくださらないのはなぜでしょうか?


1ch 2013/10/20 11:00
自分がどう思っていようと、自分の持ち前のまま救ってくださるのが南無阿弥陀仏ということは、
私が「南無阿弥陀仏と口で称えて、それを耳で聞けば、いわれを知らずともよい」といういい加減な思いをしていようと、私を通して念仏がなされているなら、いい加減なまま救ってくれているのでしょうか?
救ってくれているのに救われていないから持ち前の不信さを持っていては救われないのではないかと疑ってしまいます。
なぜ不信のままでは救われないのでしょうか、不信は私の持ち前のままではないのでしょうか?


おじch 2013/10/20 12:30
自力とは、他力無用の心です。
「若不生者不取正覚」と、あなたを救うことに命をかける阿弥陀仏に、
それを疑って「お前の助けなどいらん」と言っているのがあなたの本心です。

「仏力が無限ならば、そんな者でも救ってくれよ」ってか。
そんなわがままなあなたを見そなわして、阿弥陀様は「聞其名号」と先回りしておられます。
「南無阿弥陀仏を聞け」との仰せです。聞くは称える と祖師はお導きです。

疑っている相手が「必ず助ける」と言って手を差し出している、その手を握れるほどあなたの「助かりたい」の思いは強いのか?

南無阿弥陀仏の一声一声が勝負です。


たかぼー 2013/10/20 15:28
「なぜ不信のままでは救われないのでしょうか。不信は私の持ち前のままではないのでしょうか?」

もっともらしく聞こえる疑問ですが、十八願は「信楽して念仏する者を浄土に生まれさせる」と誓われているので、不信の者は浄土には往けません。しかし、信楽という信は既に如来が南无阿弥陀仏に込めて私に与えているので、私の方で用意するものは何もありません(無条件)。無条件が如来の救いのあり方であり、それを信じるのが信です。如来の仰せを信ぜずにアレコレと考えあぐねているのを自力疑惑というのですが、自分の考えていることはすべて自縄自縛となり、その中に自らを閉じ込めることになっているのではありませんか。そのような状態にあると如来の仰せに耳を傾けようともしなくなってしまいます。何ともし難い自力疑心はひとまず横に置いておいて、如来が何と言われているかに耳を傾けて下さい。「そのまま救う」というのが如来の仰せです。この意味を正しく理解することがとても大事なことです。「そのまま救う」を文字通りに受け取ってください。


1ch 2013/10/20 19:12
助からないということを理論として知りませんでした。
自分のために如来が信心を与えるというのなら、自分に信心はないのかもしれません。自分には信心がないということに納得しました。
自力疑惑へとどめをもらうために質問させてください。

助からないという実感や危機感が湧かないから「まだなんとかなる」「助けなどいらん」と考えています。
上の信心のところと同様に考えるなら
自分のために如来が救いを与えるというのなら、自分に救いはないのかもしれません。
と合点できるはずなのですが、自分には救いがないということは分かりません。救いとなると、如来が救いを与える以外に自分で助けらしきものを見つけているような気がします。
自分の側に助けや救いがあって信心がなくても救われると自己過信しているのはなぜでしょうか?

自分の望むことの叶わない(自分の助けが通用しない)ということが自他の環境に起きているから苦しいという認識で自分はいます。
そんな自分にも自分の助けの通用しなさそうな浄土というところが勧められています。如来は自分1chの望むようには自他を変えてくれません。

自分の助けはこの状況に合わせた現実的な助けだと思います。自他を自分の望むように変えようとする助けだと思います。
この状況に合わせた有限な助けのはずなのに、「浄土に来たれ」という助けより有用なように思えてしまいます。
そのため「浄土に来たれ」という救いには次のように思ってしまいます。
浄土へ自分で行こうとしても行けない、自分の助けが通用しない、浄土は自分の助けの及ばない場所、(自分の助けの及ぶかもしれないという)ここの延長にあるわけではなさそう、浄土へ行くならここの影響を残すことができない、苦しみに為すすべあるということも失う、苦しみに対して為すすべあるということを手放す訳にはいかない、手放して浄土に行きたくない、…
自分に救いはなく助けもないと思うことができず、自分の側に救いの可能性や助けがあると思えてしまうのはなぜでしょうか?信心決定していないのは確実なのに助からないという実感が鈍ってしまうのはなぜでしょうか?


おじch 2013/10/21 00:30
>自分に救いはなく助けもないと思うことができず、自分の側に救いの可能性や助けがあると思えてしまうのはなぜでしょうか?信心決定していないのは確実なのに助からないという実感が鈍ってしまうのはなぜでしょうか?

阿弥陀仏は「必ず救う」とお誓いです。助からないはずはありません。

あなたは現に助かっていません。お誓いを疑っているからです。

何んとかして助かろうとします。それが自力です。

自分でなくせる心ではありません。阿弥陀仏のお目当ての心です。

この心一つで頑張れるのですが、この心一つが礙げです。

なぜ?どうしたら?の問いには答えは出ています。

阿弥陀仏は「直ちに来れ」と呼ばい、釈迦は「直ちに行け」とお指図です。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏


こくう 2013/10/21 09:55
>自分の側に助けや救いがあって信心がなくても救われると自己過信しているのはなぜでしょうか?
>自分に救いはなく助けもないと思うことができず、自分の側に救いの可能性や助けがあると思えてしまうのはなぜでしょうか?信心決定していないのは確実なのに助からないという実感が鈍ってしまうのはなぜでしょうか?

凡夫だから。
「助からない実感」がわかれば、治療が必要なら治療するでしょうし、薬が必要なら飲むでしょうし、外科が必要なら手術するでしょう。

さて、いろいろ疑問が出てくるのも当然ですが、
聖道仏教では、尋ねて理解して行くべく、組み立てが用意されているようです。
何かしら回答に出会えるかもしれません。

法然上人は、聖道浄土の両方はいられて、よくよく念仏も学問もなさって、
「たとい一代の法を能く能く学すとも、一文不知の愚どんの身になして、尼入道の無ちのともがらに同して、ちしゃのふるまいをせずして、只一こうに念仏すべし。」
とのことです。(ただひとつ)


たかぼー 2013/10/21 13:17
手放しで浄土に行きたくない、…自分に救いはなく助けもないと思うことができず、自分の側に救いの可能性や助けがあると思えてしまうのはなぜでしょうか?信心決定していないのは確実なのに助からないという実感が鈍ってしまうのはなぜでしょうか?

智慧なき凡夫故、もとから浄土にゆく気がない。如来の仰せにも知らんぷり。助けると言っても何を助けるというのかが分からない。それが凡夫の本心だと思いますね。

こくうさんは、誰が如来の仰せを聞くのか。主語が大事、と尋ねていますが、聞くのは、もちろん上記のような「凡夫の私」が聞くのです。


shinrankaiuso 2013/10/21 13:27
こくうさんへ

それで結局

返って九十五種の邪道に事ふ、我是の人を説きて眼無き人と名く、耳無き人と名く(安楽集)

大聖易往とときたまふ
 浄土をうたがふ衆生をば
 無眼人とぞなづけたる
 無耳人とぞのべたまふ(浄土和讃)

とありますが、無耳人の凡夫とは、誰のことですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20131019/1382169778#c1382210278