安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「今ではなくても、あるとき救われるように思っています」(頂いた質問)

8月20日の記事を読み私も同じように考えています。阿弥陀仏に救われる方法はないと聞けば、どうしたらいいのかと考える一方、今ではなくてもあるとき救われるのではないかと期待をしています。(頂いた質問)

阿弥陀仏の救いを、距離はともかく遠くに眺めてしまうのは阿弥陀仏の本願を自分とどこか関係ないものであると思ったり、自分とは別のものと分けて考えてしまうところから来ています。

しかし、私が救われると言うことは、私がいる「今」でなければあり得ないことです。なぜなら、未来とか「いつか」「あるとき」はいつまでたっても「今」ではないからです。

親鸞聖人が教行信証に「今」と言われるところは、阿弥陀仏の救いにあうときに使われています。

ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。(教行信証総序)

http://goo.gl/HgyrGl

しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。(教行信証化身土巻_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P413)

http://goo.gl/DDtkZr

特に二つ目のご文は、「今」方便の真門を出て、選択の願海に転入せりといわれています。
方便の真門を出るのも、選択の願海に転入するのも「今」のことです。それを、今ではないいつかと思うのは計らいです。ただ今救う本願を聞いてただ今救われてください。