安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

聞法と善の関係を教えてください。(頂いた質問)

聞法と善の関係を教えてください。(頂いた質問)

聞法は、仏教で教えられる善です。そこで、お尋ねの内容を考えてみますと、聞法と善と救いの関係についてのことだと思います。


そう考えると、答えは以下のどれかになります。4通りに分類しました.

  1. 聞法は善であり、救いに関係がある
  2. 聞法は善であるが、救いに関係がない
  3. 聞法は善ではないが、救いに関係がある
  4. 聞法は善ではないし、救いに関係がない

1.「聞法は善であり、救いに関係がある」について

1は、「聞法する」という善が、救いに関係があるということになります。もちろん、法を聞くご縁に全くあうことなく救われるということはありません。しかし、聞法という「行為」が救いに関係してくるとなると、自力諸善が救いには必要という話になるので間違いです.

2.「聞法は善であるが、救いに関係がない」について

2は、「聞法する」という善は、救いに関係がないのは、本願力一つで救われるという意味ではその通りです.しかし、そうなると「ではなぜ聞法を勧められるのか?」という疑問が残ると思います。

3.「聞法は善ではないが、救いに関係がある」について

3は、「聞法は善ではない」という言い方で使う「聞法」が前の二つと異なります。このような書き方をする場合は、聞いたままが信心であるという「聞」という言い方になります。聞いたままが信心であるという意味での「聞法」は確かに私の行為(善)ではないので、その意味では間違いではない言い方となります。

4.「聞法は善ではないし、救いに関係がない」について

4は、1と2の語義からいっても間違いです。また3の語義からいっても間違いとなります。


以上並べてみましたが、つまるところ「聞法」の語義をどうするのかということが問題になってきます。
「聞法」を、「私が法話を聞きに行く行為」「お聖教を拝読する行為」という意味で使うと、聞法は善といえます。
しかし、「聞法」を「聞いたままが信心である」という意味で使えば、聞法は善といえません。


そこで、聞法は善なのかどうなのかということに関して言えば、「語義による」となります。
しかし、真宗ではやはり「聞法」とか「聞」といえば、「信」をあらわす言葉というのが本来は正しい言い方です。聞法善を積みなさいとは、阿弥陀仏もお釈迦さまも勧められていません(顕正新聞平成25年1月1日号より) - 親鸞会を脱会した人(したい人)へでソイさんがコメントに書かれている存覚上人のご文を紹介します。

聞よりおこる信心、思よりおこる信心といふは、ききてうたがはず、たもちてうしなはざるをいふ。思といふは信なり、きくも他力よりきき、おもひさだむるも願力によりてさだまるあひだ、ともに自力のはからひちりばかりもよりつかざるなり。(浄土見聞集)

ここに「他力よりきき、おもひさだむるも願力によりてさだまるあひだ、ともに自力のはからひちりばかりもよりつかざるなり」とあります。「自力のはからひちりばかりもよりつかざるなり」ですから、「聞であり信」は私の行為という意味で使うのは適当ではありません。


よって、「聞とは信である」「自力の計らいは塵ばかりもない」という意味での「聞法」が本来の語義という意味では、3が的確な答えとなります。
2に関しては、聞法の語義をどちらでいわれているのかを、よく考えられたらいいと思います。親鸞聖人や蓮如上人の言われる聞法の勧めは「法話に来い」ではなく、「ただ今阿弥陀仏の仰せを聞きなさい」です。