安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「浄土真宗での信心と世俗の幸せは関係ないのでしょうか?」(頂いた質問)

浄土真宗での信心と世俗の幸せは関係ないのでしょうか?(頂いた質問)

信心決定すれば「幸福」になれると思うのは間違いです。

なぜなら、幸福という言葉の定義は、一般的に以下の通りです。

【幸福】こう‐ふく〔カウ‐〕【幸福】
[名・形動]満ち足りていること。不平や不満がなく、たのしいこと。また、そのさま。しあわせ。「―を祈る」「―な人生」「―に暮らす」(Yahoo辞書_大辞泉)

http://goo.gl/pWXTO

「満ち足りていること」と「不平や不満がない」はほとんど同じ意味で書かれています。一般にこれから想像されることは、大きな意味で欲が満たされている状態ということになります。

では、信心決定すれば私が日ごろ考えているような欲求や、不満に思っていることが解消されるのかというとそれは違います。死ぬまで煩悩がなくならないのが凡夫です。

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。(一念多念証文_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P693)

http://goo.gl/s9nqh

このように親鸞聖人がいわれるように、また二河白道のたとえにも書かれているように、信心決定したとしても欲も多く、怒り、腹立ち、そねみ、ねたむ心が死ぬまで亡くならないのが凡夫です。
煩悩が満たされるという意味で「満ち足りていること」「不平や不満がない」ということは、信心決定とは無関係です。

「現生に十種の利益をうる」と言われるのは、そのような煩悩が満たされるということではなく、往生浄土が定まるという意味です。入正定聚の利益を得るというのは、辞書的な意味でいう「幸福」ではありません。

ただ今救うの仰せに従っただけであって、それ以上ののことは何もありません。往生浄土を危ぶむ心がなくなったといっても、それは私の方で決めた安心ではなく、阿弥陀仏の方で決められたことなので、やはり辞書的な意味での「たのしい」「しあわせ」とはまたことなります。なぜなら、私の方で決めたことでも、また私の方で何かをつかんだからでもないからです。