安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「南無阿弥陀仏を聞くのは誰でしょうか?」(ぱるるさんのコメント)

ぱるる 2012/09/24 12:13
南無阿弥陀仏を聞くのは誰でしょうか。
「わたし」は聞くことができません。
何故なら「わたし」が聞こうとする時点で自力になってしまうからです。
聞くことが(出来る・出来ない)と思うのは私の側の考えで、阿弥陀仏の仰せはただ聞けばいいということならば、一体誰が南無阿弥陀仏を聞いていることになるのでしょうか。わたしでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120922/1348261902#c1348456433

たかぼー 2012/09/24 17:28
以前にオーボイドという人も、同じようなことを言っていましたね。それは別にして、大経下巻の「聞其名号信心歓喜」は諸有の衆生について言われたことです。あなたは諸有の衆生に入らないのでしょうか。問題は聞く中身です。名号を聞くとは如来の願力に誤りのないことを聞く、ということです。聞く中身を間違えていては聞いたことになりません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120922/1348261902#c1348475337

阿弥陀仏の仰せを聞くというのは、「私という主体」が聞くということではなく、「私を場として本願力が働いて下される」ということです。
あくまでも主体は阿弥陀仏です。阿弥陀仏の本願力を光明ともいわれますが、光明が私に届いたというときは、届いた私が何かをしたということではなく、光明が私に届いたといいうのと同じことです。しかし、届いた光明は私に届けられているので、その光明は私に働きます。

そのことをお軽同行は

おかるおかると呼びさまされて、ハイの返事も向うから

と言われました。

ハイの返事も向こうからというのは、私の方で挟む行為は一つもないことを言われています。すべて他力なので、私が「聞く」という「行為」も本来は必要としないのです。
ただただ、ただ今救うの仰せをそのまま受けたのが「聞いた」といわれることです。