安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「信心決定にとって要る心と要らない心をわかり易く教えて下さい。」(がくとさんのコメント)

がくと 2012/09/07 03:04
「必ず助かると思え」「のような考えで法を聞くべきではない」と仰っていますが、
助かるには私の側の思い、言葉を変えると「信じる心」が必要ということと理解しますが、
片や「私の側で添えるものは何もない」ともよく仰っています。
信心決定にとって要る心と要らない心をわかり易く教えて下さい。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120906/1346921035#c1346954690

信心決定にとって必要な心というものは、ありません。ないというのは、「これがなければ信心決定できない」と阿弥陀仏が要求されているものはなにもないという意味です。とはいっても、全く仏法を聞く心が生涯起こらず、一度の念仏も称えない人を救うという本願でもありませんので、聞法心は必要です。

それに対して、信心決定にとって必要でない心には、本願を疑う心です。エントリーに書いた、「救われるかどうかわからない」「救われる可能性は限りなくゼロに近い」と本願を疑う心です。
しかし、本願を疑うといっても、上記のようなものばかりではありません。「真剣に聞こう」という「強い聞法心」も本願を疑う心です。

なぜなら、「真剣に聞いたらなんとかなる」と思えばこそ真剣に聞こうとするのですが、それは「真剣に聞くものでなければ救ってくださらない」と阿弥陀仏を疑う心になるからです。

とはいえ、「真剣に聞かねばよいのだろう、待っていればよいのだろう」と考えるのも、「そのようにすれば救ってくださるだろう」と本願を計らっている心ですから捨てものです。

結論から言えば、現在阿弥陀仏の救いを聞こうという心の人にとって「必要な心」というのはありません。反対に「必要でない心」は、いろいろとあります。

しかし、それを「捨ててから」聞こうと思えば、それもまた自力の計らいですからそれも捨ててそのまま阿弥陀仏の本願をただ今聞いて救われてください。必ずただ今救われます。