安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

ただ今救うの仰せを聞いて疑い無いのが信心と聞きましたが、そのように聞いているつもりですがこれでよいのでしょうか?(頂いた質問)

ただ今救うの仰せを聞いて疑い無いのが信心と聞きましたが、そのように聞いているつもりですがこれでよいのでしょうか?(頂いた質問)

信心の定義は、本願を聞いて疑い無いことですが、そのように聞いているつもりだから大丈夫だろうと、自分の聞き方に目を付けて安心するのは信心とはいいません。

このように確認されるのは安心したいという気持ちが強いからだと思います。しかし、安心感や喜びは信心そのものではありませんので、それを「信心」と想定して求めていってそこにはなにもありません。

同じような考えから、誰から聞けば良いのだろうということを問題にする人もあります。このように聞く「人」を問題にするのも、自分自身の安心や幸福感を求めるからです。なぜなら、本願を聞くよりも、安心したい心が先にあるから、より直接的に目に見える人からなにかを与えて貰おうとします。

そのため、本願を聞くと言っても、人から話を聞くようにしか思えません。そこからさらに、知識からなにか特別な言葉を聞くことのように想像していく人もあります。

本願の仰せはただ今救うの仰せ以外にありません。誰から聞くのでもなく、阿弥陀仏の仰せをそのまま聞いたのが信心です。人に確認して認可をもらうようなものではありません。