安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

宗教法人浄土真宗親鸞会(会長:高森顕徹)が新入生対象合宿でよく話にだす「盲亀浮木の喩え」について(高松悟峰和上語録下巻・洗心書房から、元の話を紹介)

前回のエントリーにつづいて、親鸞会でよく聞く話に「盲亀浮木の譬」があります。この「盲亀浮木の譬」も、ネット検索をすると親鸞会がらみのエントリーがほとんどなので、書いてみました。

雑阿含経にもある話ではありますが、前回紹介した「高松悟峰和上語録下巻」にまた、親鸞会でよく説明するものとは違う話として書かれていたので紹介したいと思います。

このエントリーは、二つの理由で書いています。

一つは、主に「親鸞会でしか話を聞いたことがない」「親鸞会に勧誘されて話は聞いてるけど、なんとなく不安がある」方に向けて、それらの方に「親鸞会だけが絶対真実」という妄念から抜け出るきっかけになればと思うからです。少しでも、疑問を持たれた方は、当ブログのアンテナなどからいろいろなブログをご覧になって、冷静な頭になっていただきたいと思います。

もう一つは、高松悟峰和上語録下巻が、有り難い本であったので紹介したいという思いからです。

では、以下は、高松悟峰和上語録下巻より引用です。

○人生得難し空しく過ぐるなかれ


ここに一人の人がありまして、世界中で最も高い山のてっぺんから、最も細い一筋の糸を垂れまして、まい風あれ風に吹かれておりました。またここに一人の人がおりまして、至って小さい針をもちまして、そのまい風あれ風に吹かれている、その糸を針の耳洞に、風の力で吹き込ませようとしたというお話があります。これは堤謂経*1という経典に載せてあります。


又ここに一匹の盲亀がおりました。盲亀と言っても、全くの盲目と言うのではありません。目が腹部についておるのであります。この亀は大変深い海底に住んでおりました。それが百年に一度づつ、海の上に浮かぶのであります。然るに目が腹部にありますから、せっかく波の上に出ながら、日光を見たことがありません。ところが一度幸いなことがありまして、一枚の板が流れてきました。その板に一つの節穴がありまして、かの亀がその板に取り付きました為に、板がひっくり返りまして、腹部が上を向いて亀の目がその節穴に覗きまして、初めて日光を見たと言うことがあります。これは菩薩所胎経に出たお話であります。


これはいずれも人間に生まれることの容易くないことを喩えたものであります。

昔一人の子どもがおりまして、その経文にある盲亀が浮木にあったたとえ話を聞きまして、よしどんなものか試してみようという茶目っ気を出しまして、一枚の板に自分の頭が入るだけの穴を開けまして、それを水に投げ入れました。そして自分も水の中に潜り込んで、頭を上げたり下げたりして、その穴に自分の頭を入れようとしましたが、板が漂うものですから、どうしても頭が入りませなんだ。その時ただ今の子どもが非常に感じまして、人間に生まれることは実に容易なことでない。何でも人間一生を空しく過ごしてはならぬと、菩薩処胎経には、盲亀の浮木に値うことは難しいことではあるが、時々何とかすれば値われぬことでもあるまいが、人間ひとたび生命を失えば、億劫にも生まれがたいとお説きなされてあります。されば人間一生の価値は、たとい一日と雖も、幾億の黄金にも替えがたいわけでありませんか。


されば、如何にしてこの尊き人生を利用するかなれば、人生一生の成功を謀り、空しく犬死にせぬということも肝要ではありますが、ここに最も注意すべき事は、我々が永遠に滅びざる、精神の向上を計ることであります。精神の向上と言えば転迷開悟の用意をすることであります。地獄に沈んでは、苦しくて用意ができません。餓鬼道に落ちては、飢餓のためにどうすることもできません。畜生道では、愚鈍で聞き分けができません。人間こそ、この用意をする上には非常に好い境遇であります。それも仏道修行をするとなれば人間一生わずか50年くらい、年月は、ものの数にはなりません。幸いに弥陀の本願に値遇させていただいてみれば、聞信の一念に、未来永劫の用意が整うわけであります。皆様油断なくみ法を聞かれまして、未来永劫の大果報を求められ、同時に人間の実生活の上にも、有意義な一生を過ごされんことを大いに希望致す次第であります。

親鸞会の教義を信じ、それに邁進していくことは、浄土往生はかなわないばかりか、人間の実生活の上にも種々の苦労を重ねることになります。これを読まれている会員の人は、早くその団体から離れて、阿弥陀仏の本願を聞き、浄土往生する身になってください。

「人生得難し空しく過ぐるなかれ」です。

*1:だいいきょう