安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「信前の人の念仏は、18願にその根拠があるのでしょうか、それとも20願にあるのでしょうか。

あるいは念仏を要とせず、信心だけで救われるのでしょうか。」(不信人さんのコメントより)

不信人さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

不信人 2012/04/28 08:09
信前の人の念仏は、18願にその根拠があるのでしょうか、それとも20願にあるのでしょうか。
あるいは念仏を要とせず、信心だけで救われるのでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120415/1334447108#c1335568188

信前の人の念仏といわれるのは、自力の念仏についてということだと思いますが、その根拠は18願ではありません。願で言えば、20願になります。

法然上人は「和語灯録」に他力の念仏と自力の念仏についていわれています。

在家、出家をもえらばず、有智、无智をも論ぜず、平等の大悲をおこしてほとけになり給ひたれば、ただ他力の心に住して念仏申さば、一念須臾のあひだに、阿弥陀ほとけの来迎にあづかるべきなり。生れてよりこのかた女人を目に見ず、酒肉五辛ながく断じて五戒十戒等かたくたもちて、やんごとなき聖人も、自力の心に住して念仏申さんにおきては、仏の来迎にあづからんこと、千人が一人、万人一、二人なんどや候はんずらん。

親鸞聖人は、その「自力の心に住して念仏申さんにおきては、仏の来迎にあづからんこと、千人が一人、万人一、二人なんどや候はんずらん。」について化身土文類の真門釈(20願)の結論として以下のように書かれています。

おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。(教行信証化土巻・浄土真宗聖典(註釈版)P412)

http://goo.gl/BmLtY

また正像末和讃には

(39)
真実信心の称名は
 弥陀回向の法なれば
 不回向となづけてぞ
 自力の称念きらはるる(正像末和讃・浄土真宗聖典(註釈版)P607)

といわれ、それに続けて誡疑讃に自力の念仏を誡められています。

また、自力の念仏について蓮如上人の御一代聞書では

自力の念仏といふは、念仏おほく申して仏にまゐらせ、この申したる功徳にて仏のたすけたまはんずるやうにおもうてとなふるなり。(御一代記聞書1・浄土真宗聖典(註釈版)P1231)

http://goo.gl/acYFh

といわれています。

念仏を数多く称えて、その功徳によって阿弥陀仏に助けて頂こうというのが自力の念仏です。

コメントにある「信心だけ」というのは、信心と念仏を分けることができないので、そういう表現はできません。