安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「18願の報土往生を願って念仏する未信の者の念仏」と、「不如実修行者の念仏」と「六道輪廻する者の念仏」との関係・違い目は何でしょうか。辺地は説かれてはあっても果たして行く人はあるのか疑問です。(不信人さんのコメント)

不信人 2012/04/14 05:31
(略)
「18願の報土往生を願って念仏する未信の者の念仏」と、「不如実修行者の念仏」と「六道輪廻する者の念仏」との関係・違い目は何でしょうか。辺地は説かれてはあっても果たして行く人はあるのか疑問です。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120413/1334304970#c1334349090

違い目について考えて見ますと、浄土をどのようにみているのかという違いがあります。
「18願の報土往生を願って念仏する未信の者の念仏」については、浄土は少なくとも18願の報土であるところの浄土で有り、化土を目指しているのではないということになります。

「不如実修行者の念仏」については、不如実修行というのが、20願の行者ということにすると、20願の行者は真仏土・化身土の違いが分からずに、臨終来迎していくのが浄土であり、それが本願だと考えています。

「六道輪廻する者の念仏」については、20願の行者のように一心不乱に念仏するわけでもなく、報土化土の違いも知らずに、浄土を願う心もない人のことです。

念仏そのものは、

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。(教行信証行巻・大行釈)

http://goo.gl/iH3WG

といわれるように、南無阿弥陀仏と称える(称名念仏)に違いはありません。

親鸞聖人が化土往生について言及されたのは、念仏をとなえて臨終来迎を期待していた当時の浄土門内の人に対する批判でした。
「あなたは浄土にいけるかもしれないけれど、それは化土ですよ。本願に報いた報土ではないからそれは間違いです」
と批判をされました。

そう考えると、現在18願の救いを求めている人は、この親鸞聖人の化土往生について誡められたお言葉は必ずしも当てはまることはありません。もちろん、18願(往生即成仏・現生不退)を聞きながら、臨終には阿弥陀仏がなんとかしてくれるだろうと考えている人もあるので、全てというわけではありません。

違い目の一番は、念仏そのものが大行であり、私をそのまま浄土往生させて下さるお働きがあるか、と信じているかいないかの違いです。

「どんな念仏を称えたらいいのだろうか?」という意図で、不信人さんはコメントされているのではないかと思いますが、阿弥陀仏の仰せの通りに念仏するということです。私がどう考えたらいいかという念仏は、すべて不如実修行となり、報土往生はできません。