安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

本願を聞いて疑い無いと言うことは、本願がよく分かるということでしょうか?仏智を頂くのですから、何か分かるようになるのではないでしょうか?(頂いた質問)

本願を聞いて疑い無いと言うことは、本願がよく分かるということでしょうか?仏智を頂くのですから、何か分かるようになるのではないでしょうか?(頂いた質問)

本願を聞いて疑い無いとは、本願が「わかる」ことではありません。それを別の言い方でいいますと、本願が「伝わる」の方が適切です。

なぜなら、阿弥陀仏の本願は阿弥陀仏の方から私に向かって喚び続けられる真実の言葉だからです。それを親鸞聖人は、教行信証総序に以下のように書かれています。

誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。(教行信証総序・浄土真宗聖典(註釈版)P132)

ここでは本願を「摂取不捨の真言」といわれ、それを「誠なるかな」といわれています。しかし、「摂取不捨の真言」が分かった(理解出来た)から「誠なるかな」と言われたのではありません。もし「分かる」とすれば、真実を真実と理解出来るのは如来だけだからです。実際、阿弥陀仏に救いとられると言っても、悟りをひらくわけでもなく、煩悩が「臨終の一念にいたるまで、とどまらず消えずたえず」なのが私ですから、本願が「分かる」はずはありません。

ここで親鸞聖人が「誠なるかな」といわれるのは、「摂取不捨の真言」が私に伝わったということです。
阿弥陀仏は私を救う為に本願を建てられて、その結果南無阿弥陀仏となって私に喚び続けられ、私に称えられる形になって下さいます。もちろん、私に伝わるように南無阿弥陀仏となっては下さいましたが、それは決して「真実」を「真実ではなく凡夫に分かる程度のもの」に程度を下げられたものではありません。


よく使われる阿弥陀仏を親として、私を子供としてたとえた話がありますが、親が子供には分からないだろうからと言って、子供に分かる程度のことでしか言わなかったとしたら、子供に親の真意は伝わりません。例えば、親が子供に本当に伝えたいことが、しかも緊急に伝えねばならないことがあった場合は、親は子供に対して、1人の人間として信用して思いを伝えます。その、相手のことを真剣に思い、1人の人間として伝えた言葉は、必ずその子供に伝わるものです。


一例として、私個人の体験を書きます。あまりよく記憶していませんが、私が小学1年生のころ他人に迷惑をかけることをした際に、私の父親は私をこっぴどく叱りつけました。その時は、悪いことをしたから叱られているのだろうとは思いましたが、具体的に「どれくらい悪いことか」というのは小さな私にはあまり理解出来ていませんでした。しかし、とにかく父親の真剣な表情と言葉から「人に迷惑をかけるような事をするな」という思いは伝わりました。


阿弥陀仏は「ただ今救う、そのまま来い」と喚び続けられています。それを聞いた最初には、なぜ「ただ今」なのか、とか「そのまま」って何なのか、「来い」といわれてもどこへ?などといろいろな疑心が起きてきます。しかし、「ただ今と言ってもわからんだろから」「そのままと言ってもわからんだろうから」と阿弥陀仏が思われて「まずは廃悪修善をしなさい」と言われていたら、いつまでたっても阿弥陀仏の本当の願いは伝わりません。


五劫思惟された結果、兆載永劫の結果の南無阿弥陀仏ですから、そのまま私に届くようになっています。煩悩具足の者と知られた上で、そんな私にも伝わるだけの大変な強い強い真実の願いであり、言葉が南無阿弥陀仏です。「分かる」ことはなくても、必ずその本願は「伝わる」のです。「詳しく分からなくても伝わるだろ!」と、もったいなくも阿弥陀仏は私を、凡夫として下に見るのではなく、同じ目線で対等の者とみて喚びつづけられるのです。これが、大慈悲心です。そのように、同じ目線で私を信用して喚びつづけられるから、その本願が私に伝わるのです。

何も分からなくても、「ただ今救う、そのまま来い」が伝わるから、「本願を聞いて疑い無い」といわれるのです。必ずただ今救われます。