安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

私は、阿弥陀仏の本願を聞いているつもりですが、正直なところ自分でもよくわかりません。大きな喜びというのも今ひとつ分かりません(頂いた質問)

私は、阿弥陀仏の本願を聞いているつもりですが、正直なところ自分でもよくわかりません。大きな喜びというのも今ひとつ分かりません(頂いた質問)

分からないことを分からないと正直に書かれることは良いことだと思います。分かってもいないことを、分かったかのように周りの人の口に合わせるのはよくないことだと、御一代記聞書にもあります。

一 蓮如上人仰せられ候ふ。一向に不信のよし申さるる人はよく候ふ。ことばにて安心のとほり申し候ひて、口にはおなじごとくにて、まぎれて空しくなるべき人を悲しく覚え候ふよし仰せられ候ふなり。(蓮如上人御一代記聞書74・浄土真宗聖典(註釈版)P1255

蓮如上人は「なかなか信をえられません」という人はよいが、言葉だけ「安心のとほりに申し」て、口まねで信心を偽装したまま死んでいく人を悲しく思うのだといわれています。

「信心とはこうあるべきもの」という前提で、とにかくそうなろうと思うのも間違いですが、その通りの心がないにも関わらず口だけ信者ぶるのも間違いです。今回の質問で「よくわからない」と書かれたのは、その通り思われたことを書かれたのですから、とても良いことだと思います。その反対に、特に親鸞会会員の人が「分からない話だ」と思いながら、「今日の話はよくわかった」というのも、「このまま救われることがあるのだろうか」と思いながらも、「きっとこの道を進めば救われるに違いない」と言うことは、蓮如上人が「まぎれて空しくなるべき人を悲しく覚え候ふ」と悲しまれている人と同じです。(この場合は、信心偽装というよりは「会長への信仰偽装」と言った方が適当かもしれません)

本願を聞いたらこうなるではなく、ただ今救う本願ですから「だだ今救う本願」と聞いて下さい。必ずただ今救われます。