安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

親鸞会の未来を、無碍界裡の覚醒から考える

最近「清沢満之の研究」という本を読みました。高森会長が引退(もしくは死亡)した、未来の親鸞会の姿を予想する内容だったので、その内容と私が思ったことをエントリーとして書きたいと思います。

清沢満之氏の死後、暁烏敏・多田鼎の両氏がその後を継ぐことになります。その暁烏敏・多田鼎両氏の信仰についての記述が以下の文章です。

清沢満之亡き後の浩々洞を背負って立った暁烏敏・多田鼎の信仰・思想を一言にして云えば、それは恩寵主義と名づけられ得るものであった。それは暁烏が「先生の御在世の間から特にその後になって、段々と感激的に弥陀を崇拝し、現在の境遇より弥陀の慈悲の存在を説明しようとした」(更生の前後)と述べているように、罪悪凡夫との自覚に於いて、そのような自分がそのまま如来大悲の広大なる恩寵の中に包まれてある、との陶酔的な信仰・歓喜となっていったものであった。多田鼎もまた、「私の論証は追々に実際的の色彩を加えてきました。明治40年前後から、私の精神界を動かしてきたのは、恩寵の思想でありました」と述懐している。
清沢満之の研究 (1957年)P354より)

この高らかな宣言を支えているものは、洞人達の清沢満之への絶対的な信憑、彼によって真に獲信しえたという確信であった。
従って彼らが、「先生の名を、先生の徳を、先生の教えを世に伝える事」(暁烏・更生の前後)を任務として自らに課したのは当然であった。(清沢満之の研究 (1957年)P359)

親鸞会の人に当てはめると「会長先生の仰るとおりの信心を体得した」というものです。また「高森先生の名を、高森先生の徳を、高森先生の教えを世に伝える事が任務である」といっているようなものです。おそらく親鸞会の未来はこのような活動方針になるでしょう。(存在していたらの話ですが)

しかし、先に挙げた暁烏敏・多田鼎両氏の信心は、その後崩壊したと清沢満之の研究にあります。

【暁烏敏氏の信仰の挫折】
大正2年7月号の「精神界」巻頭言として、「権威なき生活内容」との見出しの下に、「私の近来の気分は、人に対し、世に向いて道を伝えるとか、法を述べるとかいう風には慣れないのである。そうしてそんな伝道的な気分が起こると、側面から見ておるところの自己が、汝はどうか、汝は充実しておるのかとあざ笑っていおるようである。自分の学問も、知識も、道徳も、信仰も、いかにも空虚なように思わるるのである」とその心境を綴っている。

【多田鼎氏】
大正三年の田舎生活の後に上京、浩々洞を訪れた彼は、藤原鉄条、清水俊栄等の若い洞人達との論戦において、その恩寵主義的信仰を完全に論破されてしまった。その時、彼から実在的な如来や、その大悲心なるものは消え去ってしまったのである。
暁烏敏・多田鼎の挫折によって浩々洞の恩寵主義は破綻したのである。(清沢満之の研究 (1957年)P366)

このようなエントリーを書くのも、最近飛雲さんより法論を申し込まれたはずの親鸞会渡部弘宣局長が書いたと思われる夢幻界裡の覚醒があまりにひどかったからです。


何しろ飛雲さんの主張を否定する根拠が「高森顕徹先生の御著書」だったからです。これは先に挙げた暁烏氏の「「先生の名を、先生の徳を、先生の教えを世に伝える事」(暁烏・更生の前後)を任務として自らに課した」と同じです。どれだけ「高森会長先生」を持ち上げたら気が済むのでしょうか?

先に謝っておきますが、「無碍界裡」さんがプロフィールにあるとおりに本願寺派の方でしたらすみません。もし違っていたら、コメントでお願いします。

しかし、私の個人的感想としては、2011年10月以来更新がなかったブログが、渡部弘宣局長宛に飛雲さんから法論を申し込まれた時から、突然飛雲さんターゲットの記事を連日投稿しているのは偶然の一致とは思えません。

最後に渡部弘宣局長へ、お願いですから、匿名ブログでちまちまやるのはやめて、法論にまともに返事を書くことをお勧めします。(ちがってたらすみません。トラックバックを送りますので、無碍界裡さんがもし違うというのであればコメントをお願いします)