安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

教義や組織に疑問を持ちながら親鸞会会員が富山の親鸞会館へ足を運ぶたった1つの理由

私が親鸞会にいた頃を振り返って、どうしてあれほど高森顕徹会長の法話に足を運び続けていたのかを考えて見ました。


結論から言いますとそのたった1つの理由は、高森会長の話の意図は終始一貫して「富山へ来い。ワシの所へ来い」だったからです。

それ以前に考えていたものは、「高森顕徹会長が正しく親鸞聖人の教えを伝えていると信じていたから」でした。しかし、「正しく教えを説いている人だから」だけでは、雨が降ろうが雪が降ろうがとにかく何が何でも高森会長のところへ話を聞きに行くという過去の私を含め、熱心な親鸞会会員の行動は十分に説明できません。実際に、今年のような大雪の中でも、過去の私は高速道路で恐い思いをしながら富山へと車を走らせていました。


「それはマインドコントロールされていたからだ」という説明も正解には違いないですが、十分な説明とはいえません。なぜなら具体的に高森会長はどのようにマインドコントロールを仕掛けているのか、また会員はどのように「会長のところへ行かねばならない」と思うようになるのかの説明が不十分だからです。

マインドコントロールといっても、高森顕徹会長と、親鸞会会員のほぼ唯一の接点は、会長の法話、座談会、講義です。そこで会員は、ほぼ一方的に会長の言葉を聞くだけで終わります。そこで語られている言葉(教え)の意味が間違っている点は、これまでも何度も言及してきました。しかし、ブログなどで教義の間違いを目にしながらも、それでも富山へ富山へと足を運んでいる人も多くあります。


そこで、今回のエントリーでは高森会長の「言葉の意味」よりも「言葉の意図」について言及します。

高森会長と会員の唯一の接点である「言葉」について、岡田斗司夫さんの「評価経済社会」から以下引用します。

 一般にメディアの本質は「意味の伝達だ」と言われています。
 が、これは大きな間違いです。確かに、メディアには「意味を伝達する働き」があります。が、メディアの「本質」という点で考えれば、「意味の伝達」ではなく、「意図の強制」だととらえるべきです。

 まず「言葉」という一番シンプルで、原始的なメディアを例にとって考えてみましょう。
 たとえば、子供が崖っぷちに向かって走っていこうとしているのを見つけた親は、「危ないよ!」と声をかけます。
「危ない」ことを伝えたいのではありません。
「行っちゃダメ」と止めたいのです。言葉だけ聞くと、「危ない」という「意味を伝達」しているのですが、実は「行っちゃダメ」という「意図を強制」しているわけです。

高森会長の法話の讃題は「あはれあはれ存命のうちに皆々信心決定あれかし」です。こう言って話を始めるものの、どの話も一日かけて言うことは「信心決定するにはこの横の線を進まねばならない、それには真剣な聴聞(ただし会長の法話に限る)、勤行、お布施、お誘いの活動だ」に集約されます。言ってることが正しいかどうかは別にすると、言葉上は会員に信心決定せよと勧めているように見えますが、実際は違います。上記に引用した文章に、高森会長の話を当てはめると以下のような文章になります。


高森会長は「信心決定せよ」と話をします。「信心決定せよ」ということを伝えたいのではありません。「ワシの話を聞きに来い(現在は富山の親鸞会館でしかないので、富山に来い)、お布施を出せ、人を連れてこい」と言いたいのです。言葉だけ聞くと「信心決定せよ」という「意味を伝達」しているのですが、実は「富山に来い、お布施を出せ、人を連れてこい」という「意図を強制」しているわけです。


高森会長がどれだけいろいろなご文やたとえ話を出して話をしていたとしても、「言葉の意図」は「富山に来い」なのです。熱心に話を聞いている会員は、「信心決定せよ」の「言葉の意味」を頭で理解しようとします。しかし、真剣に聞くがゆえに、一日かけて会長の「富山へ来い」という「意図の強制」を思い切り受けてしまいます。


その証拠に、一日話を聞いた後の会員の頭の中にあることは「次に富山に行くにはどうしよう」ということくらいしかありません。「今日信心決定できなかった」とか「今日は本願を聞くことが出来なかった」と悩んでいる人はほとんどありません。法話と言う形で、会長は「富山に来い」の意図を会員に強制ししているのです。また「お布施を出せ」「人を連れてこい」の意図を強制しているのです。
本当に「信心決定あれかし」の意図が会長の心にあれば、どうしてこうも参加した会員の殆どが、信心決定と言葉はあってもそれについて悩む人がないのでしょうか?それは「信心決定あれかしの意図」は会長の話には全くないからです。


別の例をあげます。
親鸞会では熱心な会員ほど富山に移住したがります。また学生であれば富山に行きやすい環境を就職先として選ぼうとします。そして、富山の親鸞会館に出かけて話を聞いた後は、次の富山での行事に向けてどうやって時間や経費を捻出しようかということを考えているのが、熱心な親鸞会会員の日常です。どうしてそこまで「富山へ行く」「高森会長の法話を聞きに行く」ことばかりを考えてしまうのでしょうか?くり返しますが、高森会長の話は「富山へ来い」の「意図の強制」に過ぎないからです。それを真面目に聞く人ほど、その影響を思い切り受けてしまいます。しかも、本人はそれに気がつきません。
ですから「何が何でも富山へ行こう」「高森会長の話しか聞いてはならない」という心は、願力によっておこされた聞法心ではなく、高森会長の「意図の強制」を受けた結果にすぎません。


実際に、富山に移住した人も親鸞会結成以来大勢います。家族ごと引っ越した会員や、親友部員になった人、講師部員になった人、及びその家族、それらの人をあわせれば累計500人以上はいるのではないでしょうか?これだけ富山移住者及び会長の所に駆けつけた人がいるのに対して、信心決定したと会の中で思われている人はほとんどありません。あるいは、「富山へ行く」「会長の話を聞く」以外のことで、真剣に「どうしたら救われるか」と悩む人がどれだけいるでしょうか?
それも会長の話の意図が「信心決定せよ」ではなく、「富山へ来い」だからです。


その証拠に、「高森先生のお膝元で」と希望を懐いて富山に移住した人が、大なり小なり思うことは「富山にいる人はもっと頑張っている人ばかりだと思ったのに」ということです。そんな話は、私が親鸞会に在籍していたころによく耳にしました。
なぜそうなるのかといえば、答えは簡単です。「富山に来い」の高森会長の「意図の強制」により、富山に引っ越しても、高森会長は相変わらず「富山に来い」としか言わないからです。
「富山に来い。富山に来いと会長がというから富山に来てみたら、別に地元と変わらなかった。話はいつも富山に来いだし、移動が楽になっただけましかな」というのが、今振り返ってみると富山に異動になったあとに私が感じたことです。


親鸞会会員でこのエントリーを読まれた方があれば、富山の親鸞会館で一日話を聞いたあと何が頭に残っているか考えて見て下さい。また、日頃自分が何を考えているかを振り返ってみて下さい。「富山に行かねば」「会長の話を聞かねば」という言葉が出てきた人は、おそらく熱心に話を聞いている方でしょうから、高森会長の「意図の強制」に気づいて早く辞めることをお勧めします。