安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「求道していって後生が苦になって食事がのどに通らない、夜も眠れない。そういう心境になってきたら信心決定は近いから、赤飯でも炊いておきなさい。」は本当ですか?(3Sさんのコメントより)

3Sさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

親鸞会に在籍していた時に聞いたことです。

「求道していって後生が苦になって食事がのどに通らない、夜も眠れない。そういう心境になってきたら信心決定は近いから、赤飯でも炊いておきなさい。」

上記のようなことを会長か専任講師から聞きました。信心決定の直前には何か前ぶれというか予兆のようなものがあるのでしょうか。御回答よろしくお願いします。(3Sさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20111023/1319328223#c1319525296

結論を先に書きますと、信心決定の直前に何か前触れや予兆のようなものはありません。

確かに3Sさんにコメントされたようなことは、私も親鸞会在籍時に、講師部員から「以前会長が話したこと」として聞きました。私も以前はそんなものだと思っていました。

しかし、「後生が苦になって食事がのどに通らない、夜も眠れない心境になる」ことと、「それが信心決定の前触れである」ことは全く別問題です。

理由は2つあります。

1.「後生が苦になって食事がのどに通らない、夜も眠れない心境」になることと、信心決定には因果関係がない。

もし、因果関係があれば、「後生が苦になる」などが「信心決定の前触れ」ということはできます。しかし、「後生が苦になる」意業の働きが因となって、本願力が手助けとなって信心決定の身に救われるのではありません。あくまでも私が阿弥陀仏に救われるのは、本願力一つ、南無阿弥陀仏一つであって、私が「悩んだ」「苦しんだ」ことは何の手助けにもなりません。また、私の手助けが必要ないように既に成就された法が、南無阿弥陀仏です。

2.ただ今救う阿弥陀仏の本願ではなくなってしまう。

「そういう心境」になるのが「信心決定の前兆」ならば、「そういう心境になっていない人」は、ただ今救われないので、どんな人もただ今救う阿弥陀仏の本願に反します。
実際、信心決定した人に「後生が苦になって食事がのどに通らない、「夜も眠れない心境」になった人はおられます。また、信心決定しようと思って仏法を聞いている人のなかにも現在そういう心境の人はおられます。
しかし、「後生が苦になった」人にだけ「そろそろ救うぞ」と呼びかけられるのが南無阿弥陀仏ではありません。3Sさんのコメントに書かれた内容では、そういう阿弥陀仏の救いになってしまいます。
実際は、「後生が苦になっている人」も、そうでない人もただ今救うと常に呼びかけられているのが、南無阿弥陀仏です。「求道して、あるポイントに到達した人に始めて回向される法」ではありません。

まとめ

確かに第三者が仏法を聞き求めている人を見ると、「夜も寝れないと言い始めた」とか、「後生が苦になったと言い始めた」という変化を感じることはあるでしょう。3Sさんがコメントに書かれたようなことを高森会長がなぜ言ったのかを考えてみますと、会長自身が過去に信心決定したと言っている人が、以前に比べていろいろと言動が変わったことを見聞きしたからだと思います。
しかし、「そういう人もあった」ということはあっても、上記にも書いたように、「後生が苦になる」「食事ものどを通らない」「夜も眠れない」と信心決定には因果関係はありません。


それを「信心決定の前触れ」とか「予兆」のように言うことによる大きな弊害は、聞いている人に「ただ今救う本願」と思えなくしてしまうことです。

私も過去に3Sさんのコメントに書かれたことを初めて聞いたときは、「そんな気持ちになる時もあるのか」「それは未来の事だな」と思いました。


なぜなら、大学1年生で初めてその話を聞いたときの私の現状は、「後生が苦になって眠れない」こともなく「ご飯がのどを通らない」こともなかったからです。それどころか、親鸞会学生部の活動のため、夜寝る時間になればあっという間に眠りに就き、朝会合の日は起きるのが辛かったぐらいでした。「後生が苦になったら眠れないはずだ」と聞いて、寝るときに実際に後生を苦にしようと頑張ってみましたが、「後生が苦になったら…」くらいで寝ていたと思います。
朝会合や夜会合が続くので、ご飯がのどを通らないどころか、食べられるときがとても有り難かったような状態です。

そんな状況の大学1年の私が思ったことは「そんな気持ちになるまで仏法を聞かねばならない」でした。「聴聞がないときは、活動をせよ」との親鸞会の活動方針に従って、活動をつづけ、その後講師部になっていました。「後生が苦になって食事ものどを通らない、夜も眠れない」ところを目指すのが目的になり、ただ今救うの阿弥陀仏の本願を聞く気持ちがなくなっていきました。

かつての私がそうであったように、現在の親鸞会会員の多くは「後生が苦になる時」を目指して高森会長の話を聞きに富山に出かけ、地元で活動を続けています。ただ今救うと常に呼びかけられる南無阿弥陀仏を自分で遠ざけています。結果的に会員を本願から遠ざけているのは、他ならぬ高森会長です。その罪は大変大きなものです。

コメントしてくださった3Sさんの文面からすると、現在の3Sさんの心境は「後生が苦になって、夜も眠れずご飯ものどを通らない」状況ではないのだと思います。
しかし、大事なことは「後生が苦になり夜も眠れない状態にならねば救われない」は絶対に間違いだということです。たまたまそんな心境になった人は、赤飯炊いて喜ぶ気にもなれませんし、そんな心境になっていない人は、自ら本願を聞けない言い訳にすべきではありません。

阿弥陀仏はただ今救うと呼びかけられています。ただ今とは、ただ今私がいるのは、私がいるこの場です。たとえ聞法の場にいようが、地下鉄に乗っていようが、山奥にいようが、自宅でパソコンの前に座っていようが、これを読まれているただ今がその場所が私を救うと呼びかけられている場所です。

「特別な心境の時」に限定してはなりません。日常のただ今救われるのが、阿弥陀仏の本願です。ただ今救われて下さい。