おさびしやさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
「本願を聞いて疑いない」のが「ありません」というご回答だったので、再度お伺いします。「山も山さんは信心決定していないのではないですか?と聞かれたら、何とお答えになるのでしょうか。」失礼な言い方で申し訳ありません。(おさびしやまさんのコメント)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110508/1304805226#c
「もしそうだったら大変ですね。」と答えます。
「そんなことはありません!」「間違いないんです!」と強く主張する気持ちはありません。また、「ひょっとしらた信心決定していないのでは?」という気持ちもありません。
そのような質問をされる人は、私の言動から「信心決定していないのでは?」と思われたのだと思います。信心が誤りならば、教えて頂ければ有り難いです。また、言動が問題ならば、指摘して頂いたほうがいいです。
どちらにしろ、そのように言って下さる方があれば有り難いことだと思います。
私が信心決定していると思えるから信心決定しているのではありません。すべて、阿弥陀仏のお働きによって信じさせられているのです。それも常に照らして絶え間ないので、ご和讃には以下のように書かれています。
(12)
光明てらしてたえざれば 不断光仏となづけたり
聞光力*1のゆゑなれば 心不断*2にて往生す(浄土和讃12・浄土真宗聖典(註釈版)P558)
聞光力とは、「弥陀の御おんちかひを信じまゐらするなり」と左訓されています。私に本願を信じさせるお働き、本願に対する疑いを持たせない働きのことです。
そのようなお働きは絶え間がないので、不断光仏ともいわれます。そのお働きによって、信心も絶え間がありませんので、いつ死んでも往生できる必ず浄土往生し仏のさとりをひらくということです。
信じるのも往生も、私の仕事は一つもありませんので、阿弥陀仏の本願を疑いなく聞いているだけです。
追記 2011/05/09 13:08
言い方を少し考えて見ました。
本願を聞いて疑いないのが信心ですが、もう少し言葉を加えると、「本願を聞いて疑いない」ことにこだわりがないと言った方が、お尋ねの趣旨にあっているかなと思いました。
自分の心の有様をみて、信心決定しているかどうかを判定しようとか確かめようと、こだわる心はありません。疑いないというのは、自分の中に確かな物差しができあがって、それによって「間違いない」と思えるようになることではありません。
本願を聞いて疑いないのですが、それにこだわる心もありません。
追記 2011/05/11 5:10
一部修正。
いつ死んでも往生できる→必ず浄土往生し仏のさとりをひらく