安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

顕真4月号「念仏成仏これ真宗」のテレビ座談会法友通信について思ったこと

顕真4月号P41について、以前書きましたが、その追記です。
ここのページは、2/28テレビ座談会参加者の法友通信でした。

以下、顕真4月号より抜粋

「念仏成仏これ真宗
 万行諸善これ仮門
 権実真仮をわかずして
 自然の浄土をえぞしらぬ」(浄土和讃)
念仏によって仏のさとりをひらく、これが真実の仏法である。それまで誘導する方便の教えが、他の仏教である。(顕真平成23年4月号P41)

(参加者の手紙より)
『善の勧め(方便)は不要』という者は弥陀・釈迦よりドえらいお方なのだろう」
とのご教導が胸にささりました。(顕真平成23年4月号P44・太字は原文のまま)

「ご教導」とは、会長から講師部員や会員向けのメッセージに使う言葉ですから、会長の発言です。

テレビ座談会参加者が、上記の文面を会長宛に書いているのですから、「念仏成仏」について話がなかったとわかります。

「念仏成仏これ真宗」とは、念仏によって仏になるのが、阿弥陀仏の選択本願であるという意味です。
阿弥陀仏が全ての人を救おうと五劫思惟された結果、善ではなく念仏で救うと、善を選び捨て、念仏を選び取られたので、選択本願の念仏といいます。

法然上人が選択本願念仏集に、選択について以下のように書かれています。

すなはちいま前の布施・持戒、乃至孝養父母等の諸行を選捨して、専称仏号を選取す。ゆゑに選択といふ。(選択本願念仏集・浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P1206

選び捨てられた諸行を、「方便だから実行しなさい」とはいわれません。それならば、選び捨てたことにならないからです。

このように法然上人が教えられたのも、阿弥陀仏の御心にそって衆生を救うという点から仰ったからです。倫理的なことや生き方の問題として仰ったことではありません。

それに対して会長は「『善の勧めは不要』という者は弥陀・釈迦よりドえらいお方なのだろう」と言っているようです。

仮に、「阿弥陀仏が『方便として』『実行させるために』善を勧められた」という親鸞会説が正しいとすると、「善の勧め」の通りに出来ない人は助からないことになります。
選び捨てられたに対する視点がすっぽり抜けています。「親鸞会でいう方便」が無ければ救われないのであるならば、救われない人は多くあります。
「親鸞会的善のすすめ」の内容で、多いのは以下の3つです。(順番は選択本願念仏集にそった説明の都合)

  1. 「建物を建てるためのお布施」
  2. 「教学試験の推進」(テキストを丸暗記するペーパーテスト)
  3. 「富山の親鸞会館へ毎回参詣」


選択本願念仏集には続けて、なぜ善ではなく念仏で助けるという本願を建てられたのかについて書かれています。
「親鸞会的善のすすめ」に対応するところを紹介します。

1.「建物を建てるためのお布施」について

もしそれ造像起塔*1をもつて本願となさば、貧窮困乏の類*2はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。(選択本願念仏集・浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P1209

造像起塔とは、仏像を造り、塔や寺を建てることです。仏像や寺を造って、寄進することで浄土往生しようという人は、法然上人のおられた当時にいました。それは貴族などの、一部のお金持ちにしかできないことです。
もしそれが阿弥陀仏の救いの条件であるなら、経済的に苦しい人は往生の望みを絶たれてしまいます。
しかも、経済的に恵まれた人は少なく、経済的に困窮している人の方がずっと多いです。
親鸞会で言えば、同朋の里にいろいろと建物を造るためにお金を出すことに当たります。最近ではほぼ2ヶ月に一度何らかのお布施案内があるそうですが、それに応じて親鸞会が必要だといっている金額を出せるような人は、現在の日本でも多くはありません。


書いていて長くなったので、続きは明日にします。

先に結論だけ書きますが、阿弥陀仏は一人ももらさず救うために、「善のすすめ」を第18願にはされていません。念仏一つで救う本願を建てられました。
親鸞会で推進されることは、会員を選択し、活動について行けないものを選び捨て、活動について行けるもの、会の指示に従う者を選び取っているだけです。

そんな阿弥陀仏なら絶対にされない、人の選択をする会長は、「弥陀・釈迦よりドえらいお方なのだろう」と思います。

*1:造像起塔・・仏像を造り、塔寺を建てること。

*2:貧窮困乏の類・・経済的に貧しく生活が困窮している人