安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「釈迦一代の教えは善をせよ」なんでしょうか?(4月3日二千畳座談会参加者より)

「八万四千の法門は、みなこれ浄土方便の善」の話がずっと続いています。毎回会長から「釈迦一代の教えは、善をせよ」「因果の道理」と聞いています。善をすること自体を否定するつもりはありませんが、どうも釈然としません。(4月3日二千畳座談会参加者から頂いた質問)

結論からいいますと「釈迦一代の教えは善をせよ」ではありません。第18願です。

親鸞聖人が教行信証の総序に、そう仰っているからです。

しかれば凡小*1修し易き真教、愚鈍往き易き捷径*2なり。大聖一代の教*3、この徳海にしくなし*4。(教行信証総序・浄土真宗聖典(註釈版)P131・法蔵館の真宗聖典P265

「大聖一代の教、この徳海にしくなし」といわれています。この徳海は、「善をせよ」ではなく、南無阿弥陀仏一つで救うといわれた阿弥陀仏の本願であり、それを教えられた大無量寿経の教えです。
「善をせよ」を条件にすると「凡小修行し易き真教」にはなりません。「愚鈍往き易き捷径」にはなりません。近道どころからそうとう遠回りです。

その後に

ことに如来(釈尊)の発遣*5を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して(同上)

と仰っています。
「如来(釈尊)の発遣を仰ぎ」とは、「お釈迦様が浄土に往生せよと勧められた、お勧めに従いなさい」ということです。
浄土に往生せよ、それには「かならず最勝の直道に帰して」と書いておられます。「最勝の直道」とは、最も優れた往生浄土の近道です。南無阿弥陀仏のお働きによって往生浄土せよと勧められてます。「善をせよ」ではありません。


釈迦一代の教えといっても、「何を説かれたのが一番多いか」で決めるものではありません。親鸞会では「一切経のほとんどは、善の勧めだから、釈迦一代の教えは善をせよだ」といっていますが、選挙ではないので多数決できまるのではありません。
仏教の目的は、仏になることです。自分が本当に浄土往生し仏になるには、何が一番近道かと考えれば、南無阿弥陀仏によるしかありません。


「幸せになりたい」「不幸になりたくない」なら善をしたらよいです。
「仏になりたい、浄土往生したい」なら南無阿弥陀仏です。
「日常の幸不幸」と、「浄土往生できるかできないか」は対立するものではありません。
対立すると思うから「足が痛いのも我慢して」とか「世間では日曜日に○○しているが、私は仏法を聞いているのだ」などという話が親鸞会の中でよくされるのです。

お釈迦様も親鸞聖人も「仏になる道、浄土往生」を勧められたので、南無阿弥陀仏一つを勧められました。釈迦一代の教えは、阿弥陀仏の本願であり、南無阿弥陀仏です。

*1:凡小・・愚かな凡夫。

*2:捷径【せっけい】・・近道

*3:大聖一代の教・・釈尊が一生の間に説いた教法

*4:しくなし・・及ぶものはない

*5:発遣・・浄土に往生せよとすすめること