阿弥陀仏の救いはただ今の救いと聞きますが、どうも自分はまだそこまで行っていないように思いますが、こういう考え方は間違いでしょうか?(頂いた質問)
「まだそこまで行っていない」という考え方は、結論から言いますと間違いです。
しかし、私自身もそのように考えていたので、それについて考えてみます。
まだそこまで行ってないの「そこ」とは「どこ?」
私自身は、「なにか心境の変化が起きる」ことだと思っていました。
具体的にどんなものがあったか、思いつくまま列記してみます。
- 無常観が強まり、明日をも知れない命だという強い自覚が芽生える。
- 罪悪観が深くなり、自分の後生はどうなるんだろうかという気持ちになる。
- 「雑行」が問題になる。(親鸞会用語)
- 自力の心が、悪い心だと分かるようになる。
- 念仏を称えずにおれない心境になる。
- 浄土を願う気持ちが強くなる。
- なんとしても今日聞き抜かなければならないという強い気持ちが起きてくる。
だいたいこんな心になるというのが、私にとっての「そこ」だったと思います。
こう思うのも「ただ今救われる」とは、なかなか信じられないために「そこ」まで行ってみようと、「救い」を「そこまで行く」にすり替えていたからです。
そうなると、仏法を聞くのも「そこ」へ行くためになる、「ただ今救われる」という阿弥陀仏の本願の心はどこかへ行ってしまいます。
未熟者は救われないとか、上記にあげたような心があるような人間でないと救われないという思いは、阿弥陀仏の本願とはまるで逆の考え方です。
阿弥陀仏は「今は未熟だから救えない」「今はこういう状態だから助けることができない」という仏さまではありません。
阿弥陀仏は、○○な者を選ばれない仏さまです。
不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才 不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深 (五会法事讃)(唯信鈔文意・浄土真宗聖典(註釈版)P704.6行目)
- 貧窮と富貴とを簡ばず、下智と高才とを簡ばず、多聞と浄戒を持てるとを簡ばず、破戒と罪根の深きとを簡ばず。(行巻訓)
不簡とは、えらばずとよみます。えらばずと、四回繰り返しておられます。
貧しい者、苦しみ困っている人、富のある人をえらばれません。
智慧の浅い人と、広い学問を持つ人をえらばれません。
お聖教を広く大きく聞いている人、戒律を守れる人もえらばれません。
戒律を破り、罪が深く、良い心が少なく、悪い心の多い人もえらばれません。
すべてよきひと、あしきひと、たふときひと、いやしきひとを、無碍光仏の御ちかひにはきらはずえらばれずこれをみちびきたまふをさきとしむねとするなり。(唯信鈔文意・浄土真宗聖典(註釈版)P707.1行目)
と言われてます。
どんな人もえらばないことが、阿弥陀仏の本願の元にあります。「不簡(簡ばず)」と四回も重ねて言われてることを、こちらで「そこまで行かねば」というのは、自分で本願を計らっているからです。
「それが弥陀のお計らいだ」と、条件をいろいろと設定するのは間違いです。
必ずただ今救われます。「そこまで行く」のではなく「ここ」で救われます。