安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「帰去来(いざいなん)、魔郷には停まるべからず」です。(そろそろさんのコメント)

そろそろさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

(中略)私たちは何も知らないのだから、いつも基本のキから聞かなければならないと聞かされていますが、私には時間の無駄としか思えないことが何度もありました。今、私を救ってくださる阿弥陀仏の願心を、何故聞けないのだろうかと疑問に思っています。長く会員をしてきましたが、後生の一大事を、会での活動任せではなく、我が身の(私が救われるか否かの)問題として求めようと思っているこの頃です。(そろそろさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110214/1297656603#c1297694839

私たちは何も知らないのだからではなくて、私たちには時間がないのだからという前提が、会の話には全く抜けているのだと言うことがよく分かりました。
全く仏法を聞く気のない人に対しては、基本のキから話す必要はあるでしょうが、すでに阿弥陀仏の本願によって救われようという心を起こしている人に話をしなければならないのは、阿弥陀仏の本願、願心です。

帰去来、魔郷には停まるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、ことごとくみな経たり。到るところに余の楽しみなし。ただ愁歎の声を聞く。この生平を畢へてのち、かの涅槃の城に入らん」と。(教行信証・証巻・定善義より引文・浄土真宗聖典(註釈版)P312

  • 現代語訳
  • さあ帰ろう、迷いの世界にとどまるべきではない。はかり知れない昔からさまざまな迷いの世界を生れ変わり死に変りし続けてきた。どこにも何の楽しみもなく、ただ嘆き悲しみの声ばかりである。この一生を終えた後には、さとりの浄土に往こう

善導大師が、「帰去来(いざいなん)」、さあ帰ろうといわれています。この六道を離れて浄土へ生まれようと勧められています。
「魔境には停まるべからず」です。どこかの団体が、私を浄土へ連れて行ってくれるのではありません。車の運転と違って代行はできません。
今の自分にとって本当に必要なことが聞けないなら「帰去来(いざいなん)」です。
阿弥陀仏がただ今救うと呼びかけておられます。仏教の基本を学びに人間に生まれてきたのではありません。生死を離れて、浄土に往生するためです。