安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「こうしてから来い」ではありません「そのまま来い」の本願です(メンデルさんのコメント)

藤澤桂珠和上法話集とはご指摘いただいた通り、第二集P57の箇所の記載です。
罪悪観があまりなく、信罪心が分からないところがダメなのだと、本を読みながら感じたのです。(メンデルさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110204/1296811390#c1296979019

このP57の部分は、改めて読みました。信罪福心がなければならないといわれるのならば、「信罪心が分からないとところがダメなのだ」と思われる心がそのまま信罪福心です。
同じ本のP61から引用します。

「かかる者では」というのは己の罪、己の煩悩業の深さが気に掛かって、こういう事では大ごとじゃ、なんとかせにゃならんと、自分が一寸良い事でも出来れば、これで参られるんじゃあないかという計らい心が出て来る、これがいわゆる信罪福の信心という自力の信心です。(藤澤桂珠和上法話集第二集・P61より)

心の善し悪しで、「救われそうだ」「救われなさそうだ」と判断する心が、信罪福心です。「○○が分からないからダメ」というのは、上記の説明と同じ心です。

藤澤桂珠和上の本に書かれていることの関連として、藤澤桂珠和上の先生である高松梧峰和上の御示談を紹介します。
リンク先:http://www.ne.jp/asahi/senshin/hiroshima/takamatujidannPDF.pdf
今回のことで特に関連していると思うところは
04:聞法の心得
05:善悪に就いて
です。

そこでまた疑問が出てきたのですが、阿弥陀仏に向かうとは、今私を救おうと阿弥陀仏が働かれていると、自分に常に言い聞かせるということでしょうか。それとも、阿弥陀仏が本願を立てられた御心を聞法できないときは、御文章や正信偈などを何度も読み返したりした方がよいのでしょうか。阿弥陀仏に向かうとはどういうことでしょうか。(メンデルさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110204/1296811390#c1296979019

阿弥陀仏に向かうとは、ただ今救われることです。阿弥陀如来のただ今救うのお働きを聞くことです。
救われるのはまだ先のことだけれども、それまでどのように心がけていればよいかと考えての事でしたら、それも「こう心がければ救われる」と自分の心に条件をつけていることになります。

聞法の縁がないときは、どうするかということに関しては、「こうすべき」というものはありません。お聖教に関してはどれも阿弥陀仏の本願を伝えられているものですから、どれを読まれてもよいと思います。念仏を称える方が自分は向いていると思われるのでしたら、念仏を称えるのもよいことです。自分に言い聞かせたらいいのではと思われるのでしたら、それも結構です。

いずれにしろ、阿弥陀仏は直ちに来たれ、そのまま来いとの仰せなので「お聖教を拝読してから来い」とも「念仏を毎日称え続けていればそのうち行くぞ」とも「言い聞かせてから来い」とも言われていません。
阿弥陀仏の本願をただ今聞いて、ただ今救われてください。