安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「ハッキリする」とばかり言うと、「信心」という物体があることになります

救われるとハッキリ自覚できるですか?(頂いた質問) - 安心問答(浄土真宗の信心について)の補足です。

ハッキリするとか、「自覚」という言葉がでてくるのは、信心獲得という言葉の「獲得」から、何かをこの手にすることだろうと思うところからくるのだと思います。私も、以前は「信心獲得」というのだから「信心」という何かを、この手に獲得することだろうと思っていました。
しかし、蓮如上人は何かものを手に入れることを信心獲得とはいわれていません。

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。(御文章5帖5通・信心獲得)

信心獲得というのは、何かものを得ることではなく「南無阿弥陀仏のすがたをこころうる」ことです。
この「こころうる」とあるから、やっぱり何かを「得る」のではないかという人もありますが、そうではありません。

心得たと思ふは心得ぬなり。心得ぬと思ふは心得たるなり。弥陀の御たすけあるべきことのたふとさよと思ふが、心得たるなり。少しも心得たると思ふことはあるまじきことなりと仰せられ候ふ。(御一代記聞書213)

「わかったー」とか「何かを得たー」というような確信をもつのは、心得てない、救われていないのだといわれています。「少しも心得たると思うことはあるまじきことなり」が、心得たことだといわれています。
なぜそのようにいわれるのかといえば、信心といっても「弥陀の御たすけあるべきことのたふとさよと思ふ」ことだといわれているからです。何かを手に入れたこととは違います。阿弥陀仏のお助けの仰せを疑いなく聞いて、阿弥陀仏のお助けがあるとは何ともとうといことだと思う状態が信心だからです。
阿弥陀仏のただ今救うの仰せを疑いなく聞いているだけですから、私の側にはなにももの柄はありません。
一般には「得る」とか「頂く」「賜る」「もらう」といえば、何か自分の手元にものがらが届いて実際にある状態を言います。
1月のはじめに、ネットで注文したおせちが届かなかったとか、あるいはカタログの写真とは似ても似つかないものだったということが話題になりました。
「おせちを頂いた」といえば、おせちが自分の家に届き目の前にある状態をいいます。「まだ頂いていない」といえば、手元におせちが届いていないということです。
自分の想定しているものが、手に入れば「もらった」「得た」といいますが、反対に手に入らなければ「もらった」「得た」とは言いません。

信心はそもそも「もの」ではないので、「信心獲得した」といっても何も手元にはありません。また、あれこれ想定したとおりのものではありません。何も手元にない以上は、「心得ぬ」ということになります。ですから「少しも心得たることはあるまじきことなり」といわれています。
ただ今救うという仰せが私の上に、そのまま働いているだけです。ただ今救うという本願にただ今救われてください。何かを頂こうとしても、頂く「もの」はなにもありません。