安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

totoroさんのコメントについて

totoroさんよりコメントをいただきました。ありがとうございました。
お尋ね頂いた箇所は5点と思いますので、以下それぞれについて書きます。

1点目のお尋ねについて

>正信偈最初の2行は「弥陀の救い」は死んでからではない「生きている今」ハッキリするのだということがわかる。
>信仰に決勝点がある、それが南無したとき、帰命したときである、と聞かせて頂きました。

についてはどう思われますか?そのままの文については言及されてないのは、山も山さんが思われた元の文章の順番を変えたり言葉を補ったりして表現された「こういう理解」(一念覚知となる理解)をされていないとすれば、誤りとは言えないということでいいのでしょうか。(totoroさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110105/1294218165#c1294310131

上記に引用された二行の文章だけでは、何が言いたいのかよくわからなかったのであえて言及しませんでした。主張している内容が明確ではないので、正しいとか間違いということができません。

>正信偈最初の2行は「弥陀の救い」は死んでからではない「生きている今」ハッキリするのだということがわかる。

これについては、「正信偈の最初の二行は、(中略)ハッキリするのだということがわかる」という文章です。これだけでは意味がわかりません。
「正信偈の最初の二行を読めば、弥陀の救いは死んでからではないとハッキリ理解できる」という文章とも読めますし、「正信偈の最初の二行には、弥陀の救いはハッキリした体験としてわかるものだと書かれてある」とも読めます。
前半の意味ならば問題ないと思います。
後半の意味は、元の文章の「わかる」という言葉自体が一念覚知の意味でないとしても問題があります。「わかる」という言葉は、「意味や区別などがはっきりする(大辞泉)」という意味です。阿弥陀仏の救いが現在ただいま届いていることがわかるといっても、阿弥陀仏の救い全体の意味がわかる訳ではありませんので、使わない方がいい言葉だと思います。

>信仰に決勝点がある、それが南無したとき、帰命したときである、と聞かせて頂きました。

これについても、信仰という言葉の意味がよくわからないので、何とも言いようがありませんでした。

しんーこう【信仰】神仏などを信じてあがめること。また、ある宗教を信じて、その教えを自分のよりどころとすること(大辞泉)

ここでいう信仰は、辞書に載っている意味通りなら、真宗の信心とは別の言葉なので決勝点があるとかないとか言っても間違いというより別物となります。
また、真実信心とした場合でも、「真実信心には決勝点がある」の「決勝点」の意味がよくわかりません。

けっしょうーてん【決勝点】競走などで、勝敗を決めるコースの到達点。ゴール。(大辞泉)

「真実信心にはゴールがある」とすると、ますます意味がわからない文章になります。「南無阿弥陀仏にはゴールがある」と言っているのと同じだからです。決勝点(ゴール)という言葉が組み合わせとして入らない言葉が続くのでよくわかりませんでした。
「信の一念」とした場合は「真実信心には一念がある」となり意味が通りますが、「三業で自覚できるようなゴールの瞬間(決勝点)」はありませんので、間違いです。

2点目のお尋ねについて

親鸞会では教義ではなく、個人の三業の上での体験として強調しているとは、どこからそのように言えるのでしょうか。元講師でおられたのなら資料もお持ちでしょうし、そのように言える根拠としての例を挙げていただけますか。(totoroさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110105/1294218165#c1294310131

どこからについては、私が親鸞会在籍していた15年間で聞いてきたことから書きました。「ハッキリした体験がある」「躍り上がって喜ばずにおれない体験」「火にさわったよりも明らか」ということはよく聞きました。
最近の資料では、平成21年10月号顕真に以下の記事がありました。

自分のすべてが知らされ懺悔となり、報謝となって、お念仏が込み上がってくるのです。破闇満願、光明の広海、手の舞い足の踏むところもありませんでした。(中略)弥陀の救いを喜ぶ○○さんは、その後も高森先生お一人を慕い、本会の発展とともに歩んできた。(顕真平成21年10月号_第354号 29ページより抜粋)

3点目のお尋ねについて

それにこのような言い方の親鸞会では「とてつもない体験としか思えなくなる」のですね。では宮田さんは違ったのですか。(totoroさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110105/1294218165#c1294310131

違いました。「とてつもない体験」と思っている人は多くありましたが、私の場合は「とてつもない体験として自覚できるのかできないのかよくわからない」というのが、親鸞会在籍時の理解でした。
理由はtotoroさんのコメントにもありますが、三業で信心は計れないとも聞いていたからです。

4点目のお尋ねについて

それならどうして親鸞会にいて、とてつもない体験としか思えないはずのところを間違いと知ることができて信心決定したということができたのでしょうか。(totoroさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110105/1294218165#c1294310131

間違いと知ってから救われたということではありません。前述しましたが、三業で信心は計れないとも聞いていたので、当時は「よくわからない」と思っており、「とてつもない体験に違いない」とは思っていませんでした。教義の上から「とてつもない体験が自覚される」のが間違いとわかったのは、親鸞会を辞めたあと勉強をしてからのことです。
なぜ救われたかと言う点については、会長ではなく阿弥陀仏に心が向いたからです。(もちろんこれは救われる方法論という意味ではありません)

5点目のお尋ねについて

説き方と聞き方のギャップを生じさせてわからないようにするのが親鸞会のトリックだということが、まだ山も山さんには理解できていないように感じます。宮田さんの説明や理解の仕方自体が実にそのような親鸞会的だからです。だから会員や会員時代のまま曖昧な説明を自分の想像で単語を補って文章を変えて理解する癖のついている人にとっては、宮田さんの説明は理解できるように錯覚されて気にならないか却って心地よいのかも知れませんが、どう認識されてますか。(totoroさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110105/1294218165#c1294310131

totoroさんが感じられたように、私自身親鸞会のトリックをよく理解できていないところがあると思います。自分ではわかったと思っていても、totoroさんのような方からみれば理解は不十分だと思います。現状ではどれくらい親鸞会思考から脱することができたかたは、自分でもよくわからないのが現状です。
私自身は、親鸞会的であってよいとは思っていません。早くその状態から脱したいと考えています。現状はその通りに成っていないことについては、ブログ訪問される皆さんには申し訳ないことだと思っています。