安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

念仏に「○○だから」といえば自力です(たきざわさんのコメント)

たきざわさんよりコメントをいただきました。ありがとうございました。

自力の信心でなんまんだぶつはありがたいないなぁーと喜んでいるいるのは悪いことなのでしょうか。
要するに我が身が真実信心ではないのにそれを気にすることもなく、南無阿弥陀仏に間違いがないからと楽な気持ちで過ごすのはいけないことなのでしょうか。
話は少し違うかもしれませんが、安楽椅子に座ってしまうとたいへんだなどど表現される場合もあります。そもそも信心の安楽椅子に座るとよくないのでしょうか。(たきざわさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20101223/1293076691#c1293231088

ありがたいと喜んだり、楽な気持ちで過ごすこと自体のよしあしを聞いておられるのか、こういう信心で往生できるのかどうかを聞いておられるのかによって、回答が変わってきます。

南無阿弥陀仏をありがたいなぁと喜ばれることは、大変ありがたいことであって、そう思うこと自体は悪いことではありません。

しかし、そういうように喜んでいるから、往生のことは大丈夫だと安心してしまうことは間違った信心ですから、悪いことです。報土往生はできませんので、阿弥陀仏の本願にそむいた心です。

一 「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」(正像末和讃・三九)といふは、弥陀のかたより、たのむこころも、たふとやありがたやと念仏申すこころも、みなあたへたまふゆゑに、とやせんかくやせんとはからうて念仏申すは、自力なればきらふなりと仰せ候ふなり。 (御一代記聞書36)

「我が身が真実信心ではないのにそれを気にすることもなく、南無阿弥陀仏に間違いがないから」というのも、「とやせんかくせんとはからうて念仏申す」ことになります。○○だから念仏というのは、自力ですからきらうなりといわれているのです。

安楽椅子にすわる件については、よくないことです。
安楽椅子と表現されるのは、「○○だからこれで安心」とか「○○だからこれで私は真実信心だ」と、自分の心の様子や、念仏の多い少ないなどで信心を自分の中につくりあげて安心してしまうことです。
真実信心は、自らの中に作り上げるものではなく、阿弥陀仏から回向される南無阿弥陀仏を疑いなく聞くことであって、自分の中に「これで大丈夫」というものを作り上げることではありません。
自分の作り上げた信心にすがりつくと、南無阿弥陀仏が聞けませんので、安楽椅子からは速やかに捨てねばならないものです。