安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

これではだめだと合格ラインを引いても、阿弥陀仏の救いには関係ありません(おしゃまさんのコメント)

おしゃまさん、Rudelさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

Rudelさんの言われる通り自分の心の詮索をしないと、私の場合“法体づのり”になってしまうんです。
今日は御法話に参詣して来ました。 救いの法(南無阿弥陀仏)は、もう私に届いているんでしょうけど・・・。(おしゃまさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20101216/1292448794#c1292762114

○○になると、私は異安心となってしまうというご意見だと思います。
おしゃまさんのコメントを読ませていただきまして、減点方式で仏法を聞いておられるのではないかと思いました。
減点方式と喩えたのは、どういうことかと言いますと、元々の持ち点が100点有り、何かを思ったり、思わなかったりする度に、「これでは法体づのり」「これでは自力」と減点していって、ご自分で設定された合格ライン(例えば80点)を下回るともう救われないと考えられているように感じたからです。

ご自分で、合格ラインを設定し、自己採点をして、自分に不合格を通知しておられるように思います。しかし、合否を決められるのは私ではなく阿弥陀仏です。しかも、阿弥陀仏は、そのまま救うと言われています。

おほよそ大信海を案ずれば、貴賤緇素を簡ばず、男女・老少をいはず、造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず、行にあらず善にあらず、頓にあらず漸にあらず、定にあらず散にあらず、正観にあらず邪観にあらず、有念にあらず無念にあらず、尋常にあらず臨終にあらず、多念にあらず一念にあらず、ただこれ不可思議不可称不可説の信楽なり。(教行信証信巻・註釈版聖典P245)

真実信心について、親鸞聖人が教えられた御文ですが、その中で「造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず」と言われてます。
現代語訳では「犯した罪の多い少ないや修行期間の長い短いなどが問われるのでもない」と言われます。
造った罪の多少や、修行した善根の多少によって救われるか、救われないか決まるものではないと言われています。点数で言えば、減点も加点も、合格ラインも関係ない救いだと言うことです。
仏様が私たちを救済されるときには「一子のごとく憐念す」*1といわれるように、差別なくかけがえのない存在として私に向かって呼びかけられるのです。
親でも一人子に向かっては、能力に関係なく思うものではないでしょうか?仏様は、なおさら私の造罪や、善根に関係なく私を救って下さるのです。

たとえ自分でラインを引いて、自分は駄目だと思っていても、そんなことは全く関係なく、如来の一人子として尊く思われ救って下さるのが阿弥陀仏です。

*1:浄土和讃114