安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

正信偈の最初の二行について(片桐さんのコメント)

片桐さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

私、親鸞会でしか正信偈の最初の2行の解説を聞いたことないのですが正しい解釈をわかりやすく教えてください。(片桐さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20101108/1289215315#c1289470319

正信偈の最初の二行は、以下の部分です。

帰命無量寿如来 南無不可思議光
無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる。
註釈版聖典・P202

正しい解釈については、蓮如上人の正信偈大意から引用します。

「帰命無量寿如来」といふは、寿命の無量なる体なり、また唐土(中国)のことばなり。阿弥陀如来に南無したてまつれといふこころなり。(中略)
されば、この如来に南無し帰命したてまつれば、摂取不捨のゆゑに真実報土の往生をとぐべきものなり。(正信偈大意・註釈版聖典P1021(全文はリンク先参照)

帰命無量寿如来も南無不可思議光も、そのこころは「阿弥陀如来に南無したてまつれ」です。
阿弥陀如来に帰命すれば、摂取不捨の利益により、真実報土の往生を遂げることができますから、早く阿弥陀仏に救われて下さいと仰っているお言葉です。
帰命とは、阿弥陀仏の仰せに信順したことですから、阿弥陀仏の仰せに従いなさい、ただ今救うという仰せを聞いて下さいというお勧めです。

もちろん、親鸞聖人ご自身が、阿弥陀如来に帰命された上で仰っていることです。その上で、どうか早く阿弥陀如来の仰せに従って、阿弥陀如来の仰せを聞いて下さいといわれています。その点では、救われた喜びを仰られたお言葉だと味わう人もあるとは思います。

ただ、親鸞会では「親鸞は救われたぞーーー」「親鸞は阿弥陀如来にすくわれたぞーーー」という解説をよくしています。親鸞聖人ご自身が救われた喜びからいわれている言葉だとしても、阿弥陀如来に救われた人が「救われたぞーーー」ということはありません。
そのように声高に言う人がもしあれば、往生浄土する上で、自分の努力や貢献が相当あった上でなければいうことができません。先日日本シリーズでロッテが優勝しましたが、ロッテの選手が「日本一になったぞーー」という分には何も違和感がありません。優勝は、選手の力によるものが大きいからです。しかし、全く泳げない人が溺れているところを救助された時に「助かったぞーーー」とはいいません。助かったのは、全く助けて下さった方のお陰であって、溺れた人の力は何も加わっていないからです。
もし言うなら「有り難うございます」が適当です。

阿弥陀様、有り難うございます。阿弥陀様、有り難うございます。どうぞみなさん、阿弥陀仏に救われて下さいとお勧めされたお言葉だというのが普通の解釈です。

書いていて思い出したことですが、この最初の二行の説明が、親鸞会でいうものは一般の解釈ではないと言うことは会長自身が、講師部対象の講義で数年前語っています。
私の記憶では「最初の二行をあのように解釈しているのは、私(会長)だけだ。いつ本願寺の学者がつっこんでくるかと待っているのだが、50年間誰も言ってこない。」と自慢げに話していました。
突っ込んでこないのではなくて、誰も相手にしなくなったのいうのが会をやめて知らされたことです。

繰り返しますが、救われた喜びのお言葉という味わいは個人的にできても、「救われたぞーーー」と、あたかも自分の手柄のように、いわゆるドヤ顔で言われたお言葉ではありません。