安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

未信=未完成な信心 ではありません。

以前のエントリー「人生の目的」=信心決定 ですか?(頂いた質問) - 安心問答(浄土真宗の信心について)を書いた後に思ったことを書きます。

生き甲斐には完成がない(死ぬまで求道)けれども、人生の目的は完成がある、卒業がある、決勝点があると、親鸞会で聞いてきました。
「人生の目的」には、完成があるとしても、信心には完成したということはありませんし、卒業もありません。

ここでいう信心とは「真実信心」のことです。
真実信心は完成したということがないというのは、すでに阿弥陀仏の本願によって成就(完成)しているからです。

未信と言う言葉が、今振り返って思えば、未完成な信心であり、信心決定はその反対に完成した信心ということになっていたと思います。

未完成な信心を、自らの時間や体力やお金(人生の限りある資源)を費やして、完成した信心にするというのは、阿弥陀仏の本願ではありません。

その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。(御文章4帖目8通八箇条・註釈版聖典P1179

本願を建てられ、すでにその願が成就したそのお姿が南無阿弥陀仏です。
元々他力の信心は、阿弥陀仏が成就された南無阿弥陀仏が私に働いておられるお姿ですから、私たちの人生における時間や体力をそこに追加しなければ完成しないというものではありません。

南無阿弥陀仏はすでに成就しています。どこかのダムやF館といわれる宿泊施設の建設費用とは違います。
南無阿弥陀仏に疑いを差し挟み、何かを追加しなければならないと思う計らいが不要なのです。すでに完成している南無阿弥陀仏を、疑いなく聞いたのが信心です。