安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

自力を交える念仏とは?(でんさんのコメント)

でんさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

自分で口を動かし、声に出さねば南無阿弥陀仏は出てこない
そこに自力を交えずとは?(でんさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100826/1282813160#c1282986480

阿弥陀仏が、私を往生させるための行として選び取られた行を、親鸞聖人は教行信証の行巻最初に「大行」と言われています。

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。(教行信証行巻

阿弥陀仏は、どういう形で私を助けるために働いておられるかと言えば、南無阿弥陀仏という声となって、念仏の形となって私を助けるために働いておられるということです。五劫思惟され、兆載永劫の修行をされた阿弥陀仏の大功徳は、目に見えませんが、現実に働いておられます。私の口に南無阿弥陀仏という形になって生まれて下さいます。

しかし、南無阿弥陀仏と口を動かして称える念仏を、「これは自分が称えた南無阿弥陀仏」「これは私が称えた念仏」「これは私が称えようと思ったから称えた念仏」というように、阿弥陀仏の行を自分の行のように思うから、往生の助けにしようとしてしまうのです。

おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。(教行信証化土巻

本願によって選び取られた行である南無阿弥陀仏を、自分で作ったまたは利用した行と思うものは、信を生ずることはないといわれています。
自力を交えないというのは、そのように本願の行である南無阿弥陀仏に、自分で「このようなもの」と定義したり、自分の善根のように思い往生の足しにしようとしないということです。

如来の行でありますから、そこに自分の計らいを交えると自力の念仏となり往生はできません。