安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

耳に聞こえる念仏が、阿弥陀仏です(でんさんのコメント)

でんさんよりコメントを頂きました。でんさんのコメントについて、maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「きく」とは言うけれど、知ることを聞くというのだと思ってました。
本当に音として耳に聴こえてくるのですか。(でんさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100824/1282612586#c1282633848

音として聞こえています。でんさんも、今まで念仏を称えて南無阿弥陀仏と称えたことがあると思います。そのとき、ご自分で「南無阿弥陀仏」と称えられる声を、自分の耳で聞いたのが阿弥陀仏の仰せです。
正信偈に

重誓名声聞十方
(重ねて誓ふらくは、名声十方に聞えんと。

と言われています。
名号を声とされて、十方に聞こえんとされているということです。
阿弥陀仏は、この目で拝見できる仏様ではありません。南無阿弥陀仏という声の形の仏に成られたからです。
ですから、私が阿弥陀仏のお姿を目で見ることはできません。南無阿弥陀仏と名乗りを上げられ、それが声となられたのが、今の南無阿弥陀仏です。
ですから、どんな人が、どんな気持ちで称えている南無阿弥陀仏でも、阿弥陀仏が声となられた南無阿弥陀仏でないものは、一声も無いと言うことです。

夜に墓場の近くを通って恐ろしい気持ちになって称える南無阿弥陀仏も、俳優が台詞として称える南無阿弥陀仏も、阿弥陀仏に救われた人が称える南無阿弥陀仏も、全部声の形になられた阿弥陀仏のお姿です。お姿といっても声なられてるので、目に見ることはできません。

問題は、その声となられた南無阿弥陀仏を、自分が称えているように思っているところにあります。どんな気持ちで称えていても、それは阿弥陀仏が、声となって現れておられるのです。それを自分で称えたもののように思い、自分の善根となるように思うのが、名号を疑う心であり、本願を疑う心です。