でんさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
平生業成と聞くと「今生(一生の間)をかけて」と思いがちですが、即ち、現在の一念なのですね。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100812/1281613227#c1281650541
何としても私達を救いたいから、一念で救う願を成就されたのですね。
この私はいつでも救いの対象であるわけですね。(でんさんのコメント)
仰るとおりで、平生の救いというのは、一生かけてどうにかできれば万々歳というものではありません。現在ただ今の私を救う本願です。
仏様の目から見れば、現在ただ今の私が救うべき状態の者だと言うことです。
私は阿弥陀仏からみれば、救うべき相手ですが、一般にいう医者と患者のようの関係とは違います。多くの人にとっての一人の救い主ではなく、一人にとっての一人の救い主です。
阿弥陀仏の大慈悲を、一子地と親鸞聖人はいわれています。
平等心をうるときを 一子地となづけたり
一子地は仏性なり 安養にいたりてさとるべし(浄土和讃92・註釈版聖典P573)
一子地については、左訓として
三界の衆生をわがひとり子とおもふことを得るを一子地といふなり」(異本)
と仰っています。
ひとり子といえば、一般では「自分の血肉をわけた我が子」とか「わが命」という人ももあります。
阿弥陀仏にしてみれば、私は、阿弥陀仏の命であり、自分の血肉を分けたもののように見ておられると言うことです。
だからこそ、なにかの手段を講じることができる人や、ある一定基準を満たした人でないと救わないというような本願ではありません。
阿弥陀仏にとって、私こそが本当のお慈悲のお目当てなのです。育てて立派にしたり、成長してから救うような能力は私にはありません。だから、ただ今そのまま救って下さるのです。