安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

三願転入は成功体験談か失敗体験談か?

親鸞会では、体験告白は自慢話であり聞く必要は無いという一方、親鸞聖人の三願転入の御文は「親鸞聖人の体験告白」といってよく話をしています。

また、信仰を自分の言葉で語る人には近づくなといっています。

体験告白といっても大きく分けると2つあります。

  1. 私は、こうして成功しました、だからあなたも同じ事をしましょう。
  2. 私は、こうして失敗しました、だからあなたは同じ事をしないでください。

前者の例は、通信販売の健康食品、ダイエット食品の広告文句はこれ一色といってもいいです。
後者は、免許更新の際に見ることがある、交通刑務所に入った人の体験告白です。
「あの日は、急いでいて信号の確認を怠りました。あの時ちゃんと見ていれば」
「あの時は、電話の着信に気を取られ前方をよく見ておりませんでした。あのときちゃんと前を見ていれば」

親鸞聖人の三願転入の御文は、どちらかといえば後者になります。

ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。(化身土文類)

「久しく万行諸善の仮門を出でて」といわれるのも「方便の真門を出でて」といわれるのも、それは捨てるべきものであったという意味です。自分はそれまで間違っていたという体験告白です。
そんな間違い者を、見捨てず導いて下さった阿弥陀仏の御恩を感謝し喜ばれている体験告白です。「ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。」と言われている通りです。

阿弥陀仏の心を知らずに、泣かせつづけたてきた者を、阿弥陀仏は見捨てず諦めずに導いて下さっていた、呼びかけて下さっていたという体験告白です。

親不孝をし続けていた人が、「親不孝をして初めて親の心がわかった自分は馬鹿でした」と自分の過去を振り返って告白したとすれば、それは当然「親不孝をするな」ということです。

「善をしようとして助かろうと思ったのは間違いだった」という体験告白は、当然同じ過ちをするなということです。

身近なことで言えば、親鸞会退会者でブログを書いている人で「私は○年親鸞会にいてやっと間違いに気がつきました、だからあなたも○年は在籍して下さい」と勧める人がいないのと同じです。

親鸞聖人のお言葉は、自分はこうだったけれども、ご縁があってこの仏法を聞かれる方は同じ過ちをしてはならないですよというお勧めです。
してはならないといわれたことを勧める人は、親鸞聖人のお言葉を読み間違っているということです。