安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

親鸞会の講師が教義批判や体質批判に正面から反論しないたった1つの理由

このエントリーに書くことはタイトルの通りです。
ネット上では、親鸞会に対する教義批判や体質批判がよくされています。特に教義批判に関して、正面切って答える講師部員がいないということがよく書かれています。
いろいろ言われながら、なぜ彼らは教義批判に正面から答えないのでしょうか?
前から考えていましたが、サッカー・ワールドカップのニュースを見ていて思いつきました。

批判に正面から答えないたった一つの理由とは、彼らは(高森顕徹・浄土真宗親鸞会会長)サポーターであって(チーム親鸞会)プレイヤーではないからです。


ニュースを見ていると、遠く南アフリカのサッカースタジアムまで自国のチームを応援に行く熱心なサポーターの姿が映されていました。
熱狂的なサポーターは、自国の勝利を信じ、また自国プレイヤーへの批判に対しては、猛然と抗議をします。しかし、いくら熱心なサポーターでも自国のチームが負けそうなとき、自らがピッチに降りてゲームに参加する人はいません。
サッカーというゲームのルール上、選ばれた選手以外がゲームに参加することはできないからです。


親鸞会の講師は、丁度このサポーターと同じで、命がけで応援はしますが、ゲームには参加はしてこないのです。それは、自分がサポーターであるというように自分自身に言い聞かせているからです。
試合に勝てば喜び、負ければ涙をながしますが、試合に勝つか負けるかは、最後はサポーターの力ではなくグラウンドに立つ選手のプレーで決まります。


サッカーならばそれでいいのですが、自らが講師または布教使を名乗りながら、教義批判をされると、サポーター(会長の応援団)となり、自らがプレーヤーとなって批判に立ち向かうという事はありません。最後は、会長が出てきて批判に対抗してくれるということだと思います。浄土真宗親鸞会は、高森顕徹会長の一人チームで、他の講師は何人いても自分自身はサポーターだと言い聞かせています。
だからどれだけ、応援するチーム(浄土真宗親鸞会・高森顕徹会長)が劣勢になっても、彼らはグラウンドに降りてゲームに参加することはありません。


一度外にでた人間から見ると、親鸞会の講師は高森顕徹会長のサポーターではないのです。ちゃんとしたチーム親鸞会というチームのプレイヤーなのです。在籍当時の私は、この違いがよく分かっていなかったと思います。


命がけ」という言葉を、親鸞会の講師はよく使いますが、それは「命がけの応援(サポーターとしての活動)」であって、「命がけの布教(プレーヤーとしての活動)」ではないのです。
サポーターとして、大声を出したり、そろいの服を着たり、スタジアムに観客を呼ぶ努力をするよりも、プレーヤーとしてやることがあるのではないかと思います。