安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

たのめについての続き(でんさんのコメント)

でんさんへのエントリーの続きです。

話では待つべきでない(救われるべき)と分かってはいたけれど、
待っていた気がして恥ずかしいです。なんで理解と行動が伴わないのでしょう。
しかし、何もする必要がなく、待つ必要もなく、それでいて「たのめ」とは…?(でんさんのコメント)

何もする必要が無いというのは、その通りですが、「待っていなさい」ということではありません。

弥陀をたのむ、たのめについては、御一代記聞書にこのように書かれています。

一 聖人(親鸞)の御流はたのむ一念のところ肝要なり。ゆゑに、たのむといふことをば代々あそばしおかれ候へども、くはしくなにとたのめといふことをしらざりき。しかれば、前々住上人の御代に、御文を御作り候ひて、「雑行をすてて、後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」と、あきらかにしらせら れ候ふ。しかれば、御再興の上人にてましますものなり。(御一代記聞書188 註釈版聖典P1291)

http://wikidharma.org/4c2c86161f3a9

親鸞聖人の教えは、たのむ一念のところが肝要ですが、くわしくたのむとはどういうことかを知りませんでした。そこで、蓮如上人が御文章にて「雑行をすてて、後生助けたまえと一心に弥陀をたのめ」と明らかに教えてくださいました。

待っていれば良いのだろうか、こうした方が早く救われるのだろうかという自力の計らいをすてて、どうか助けさせてくださいという阿弥陀仏の仰せにおまかせするのが、弥陀をたのめということです。

理解と行動が伴わないという点については、「たのめ」という言葉の理解が、「私が何か行動を起こすこと」と思われているからではないかと思いますが、「たのむ」については、どのように考えておられるでしょうか?