安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

救われた人でもそれぞれ違うところ(おしゃまさんのコメント)

おしゃまさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「その人その人の機に合った法の花が咲く。」という言葉を聞いたことがあります。
信後と思われる人でも、御説法を聞いて泣く人もあれば、あまり態度が変わらない人もいます。
やはり、人それぞれ機が違うので、味わい方も違うんですよね?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100430/1272577006#c1272797287

過去の善知識方もそうですし、妙好人と言われる方も、それぞれ救われた世界を表現される言葉が違います。
一味の世界と言っても、信心が一味なのであって、その人その人の感じ方が一味になるのではありません。
信心とは、南無阿弥陀仏の名号のことであり、阿弥陀仏の本願に疑いないことです。阿弥陀仏の本願を聞いて疑いがないという点では、どの人も同じですが、逆にそれ以外はみな違うということです。

法話に参詣して泣く人があるからといって、救われた人がみな泣くと限定ではできません。態度が変わらないと言う人もあると思います。
昔の人で、行灯の明かりにたとえていわれた人もあります。
行灯の火は、どれも同じ明かりでも、行灯の外側の紙がすすで曇ってひどく汚れている人は明かりがあまり外に現れないけれども、新しい紙のようにあまりすすで汚れていない場合は周りに光を放ちます。
信心の火は同じでも、一人一人の性格や業が違うので、強く光を放つように、喜びを表現される人もあれば、一見あまり表現されない方もあります。
親鸞聖人のように不惜身命のご活躍をされる方もあれば、そうでない方もあります。
喜ぶかどうかは人それぞれですが、御恩報謝の活動は、一人一人心がけてさせていただかねばならないと思います。
みんな違っても、往生浄土させて頂くという点では、全く一味だというところが有り難いところなのです。