安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

光明について(Kさんのコメント)

「光明」とは何であるかについて教えていただけないでしょうか?
阿弥陀仏が私を救うとき、「阿弥陀仏が放たれるもの」であり、私が「その中に摂め入れられるもの」であり、「その縁にあわなければ救われないもの」であり、「その縁にもよほされて信心を獲るもの」です。
阿弥陀仏の智慧の働きがどのようなものであるかを詳しく説明していただきたくて質問しました。
阿弥陀仏に救われた人にはどういうことが明らかになるのかということも関連します。
よろしくお願いします。(Kさんのコメント)

阿弥陀仏の智慧の働きがどのようなものであるかについては、ただ今の私を、ただ今から往生浄土の身に救って下さるものです。

仏様の智慧には、実智と権智と二つの側面があるといわれています。
私を具体的に助けようという働かれる智慧は、「権智」といわれるものです。
実智は、無分別智ともいわれて、老少善悪男女または迷いと悟りといった私たちにとっての差別を分け隔てなく、分別なく平等に見る智慧のことです。
権智は、先の実智(無分別智)を持った上で、全ての人を救うためには、善悪や、迷い、悟りを区別分別して知り私を助ける働きをいいます。

このように説明をしましたが、仏とひとしい智慧がない凡夫には具体的にどうかと言われても、わからないものです。

仏光測量なきゆゑに 難思光仏となづけたり
 諸仏は往生嘆じつつ 弥陀の功徳を称せしむ(浄土和讃)

阿弥陀如来の光明は、私たちが知り尽くすことができないものであるから、難思光仏と名付けられています。
諸仏は私が往生することを素晴らしいと褒め称えつつ、私を往生させる阿弥陀仏の功徳を褒め称えておられますといわれています。
難思光仏と言われたのは、大無量寿経にある

如来の智慧海は、深広にして涯底なし。二乗の測るところにあらず。ただ仏のみ独りあきらかに了りたまへり(大無量寿経)

の御心から言われたものです。
阿弥陀如来の智慧は広くて深いから、難思光仏ともいわれるのです。それは、ただ「わからん」ということではなく、阿弥陀如来の智慧に帰命し、自らの智慧をよりどころとしないところから仰いで言われているものです。

具体的にどうあらわれるかと言われれば、自分の智慧で測ろうとしていた仏智を、自分の智慧で測れるものではないと知らせて下さいます。
私を助けようという阿弥陀如来のお働きは、お働きとしか説明ができませんでした。何かの成分のように分析できないのは、阿弥陀如来の智慧が私たちでは測ることができないものだからです。