安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

一念は私の驚天動地の体験ではありません(頂いた質問)

阿弥陀仏の救いは一念の救いとお聞きし,そこに驚天動地の体験があるように勝手に思い込んでいましたが,そんなものではなかったということでしょうか。(頂いた質問)

阿弥陀仏の救いは一念の救いです。しかし、「一念=驚天動地の体験」ではありません。
一念の救いという言葉は、信心一つの救いと読みますと、「一念=信心=驚天動地の体験」とはなりません。
「信心」=「驚天動地の体験」=「三業」とはならないからです。

阿弥陀仏の本願で誓われている信心とは、その体は至心です。

この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。(教行信証信巻

この至心は、南無阿弥陀仏を体とするといわれています。
信心のそのものがらは一体何かと言えば、驚天動地の体験ではなく、南無阿弥陀仏であるということです。
驚天動地の体験が、信心のものがらとしますと、信心は私たちの喜びや、懴悔からできあがったものだということです。あるいは、私たちを喜ばせたり、涙を流させるようなものから出来ているということになります。
もしそういうものであるならば、信心決定した人は、驚天動地の体験をしつづけるということになります。ただ、普通に考えるのならば、驚天動地の体験がつねに続けば、それは日常の体験となります。
SF作品では、主人公がある日異世界にまぎれこむというものがよくあります。思いついたのは「戦国自衛隊」*1という映画です。これは、自衛隊がある日訓練中に400年前の戦国時代にタイムスリップするというものです。こんなことがもしあれば、まさに「驚天動地の体験」です。最初は戸惑う隊員も、やがて戦国時代の戦いに参加していきます。
どんな体験も、続けばそれは日常になります。
信心のものがらが、「驚天動地の体験」とすると、その信心は相続しないものになってしまいます。

一 当流の信心決定すといふ体は、すなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。(御文章4帖目8通・八箇条

信心の体は南無阿弥陀仏なので、このように蓮如上人はいわれています。
私の胸の内を探してみつかるものは、煩悩です。信心のものがらは、南無阿弥陀仏ですから、驚天動地の体験ではありません。

*1: