さとるさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
私が「まかせた」結果救われるのであれば、前回のエントリーで書いたように、「→」の関係になります。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100311/1268256424信心獲得とは、
・獲は因位
・得は果位
と聞きますが、因→果ですから、「→」の関係でいいのではないでしょうか?信心獲得した人の、
・獲とはどういうことでしょうか?(得との違いについて)
・得とはどういうことでしょうか?(獲との違いについて)(さとるさんのコメント)
コメントの文面で言えば、私が「まかせた」のが信心ということになるのではないかと思います。
私がまかせた(という行為)が因→往生という結果ということではありません。
コメントして頂いたエントリーは、信心そのものはどういうものかということについて、「私が『まかせた(という行為)』の結果が信心ではありません」ということについて書きました。
引用された御文は、自然法爾章の最初の部分だと思います。
「獲」の字は、因位のときうるを獲といふ。
「得」の字は、果位のときにいたりてうることを得といふなり。(正像末和讃・自然法爾章)
この因位とか、果位というのは、私の行為についてのことではありません。
南無阿弥陀仏のお働きの現れ方と理解されたらいいかと思います。阿弥陀仏が、南無阿弥陀仏を成就され、この南無阿弥陀仏に私が往生する因も果も全部含まれています。
それが私の上に働いて下されているのを信心と言います。この信心が因となり、私が往生し、成仏するという結果が起きます。私の身の上に起きていることとはいっても、私の行為の因果のことではありません。
獲得がどう違うかといわれると、往生一定の身に現在救われているのは、「獲」(因位)です。その後、報土往生し仏に生まれるのが「得」(果位)です。
コメントから読んで思ったことですが、まだ死んでもいないし、報土往生していないのだから、まだえていないのではないかと思われてのことではないのかと思います。(違ってたらすみません)
南無阿弥陀仏が私に働いたのが信心です。その信心(因)には、私を往生し、成仏させる働き(果)があるのですから、阿弥陀仏が私を助けるための因果が、南無阿弥陀仏となって働いて下さっているので、ただ今、信心獲得といわれています。