安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

助けるぞ→助かるぞ ではなく、助けるぞ=助かる です(頂いた質問)

私は、機無と言いながらも「どうしてもつかもう」、「確信が欲しい」、「阿弥陀仏の勅命がわが心にハッキリと呼び声となってきこえてくださる」と思ってしまいます。
そうでないと安心ができないような気がします。
しかし、「まかせている状態」とよく教えて下さいますが、世間でも、自分には出来ない事をプロの人にお願いして、「まかせてくれ」と言われ、「はい、お願いします。」とまかせて安心することがあります。
阿弥陀佛は「まかせよ」と言い続けておられます。「はい、お願いします。」とならないのはなぜなんでしょう。(頂いた質問)

私にハッキリするものがらは、本来ありません。ハッキリするとか、疑いないというのは、阿弥陀仏の本願の中にあることです。阿弥陀仏の本願がハッキリ分かるような人は、仏でないとわからないことです。

如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。しかれば、如来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人(源空)の仰せに候ひき。(末灯鈔7

といわれるように、弥勒菩薩でもはからうことができないものですから、私の中にハッキリするものがあるはずだと、人間でわかる種類のものではありません。
何にもハッキリしないのかと聞かれれば、疑いない本願を疑いなく聞き入れると言うことです。
「はい、お願いします」と私が言うといっても、私が阿弥陀仏の本願を十分に分かるから「はい、お願いします」とまかせるのではありません。
阿弥陀仏の仰せに対しては、聞いてから→分かりましたというような差がないのです。
仰せがそのまま、聞いたと言うことです。昔から「勅命のほかに領解なし」といわれるのは、その事です。
助けるぞ→分かりました、というような差が有る場合は、私と阿弥陀仏との間に区別があります。
助けるぞが、助かるになるというのは、言葉で書けば「→」と矢印がつく関係になるように思われるかも知れませんが、そうではありません。「助けるぞ」が「助かるぞ」です。記号で表すのは適当ではありませんが、「→」ではなく「=」なのです。

ですから、「はい、わかりました」という返事をすると思うのは「→」です。実際は、「助けるぞ」が「助かる」の「=」なのです。私は返事をしていないといっても、返事はいらないから、「勅命のほかに領解なし」といわれるのです。
ただ今救うが、ただ今助かるです。