安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

一向に自力ではなく、一心一向に弥陀に帰命です(nowhereさんのコメント)

nowhereさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

元々何もないのですから、捨てることや、顧みないことに躊躇はいりません

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100306/1267864104

ここのところがすっと入ってきません。元々何もない、と諦めがついていないのですね。まだ何かできることがあるはずだと、無意識に思っているのでしょう。
私の方では何もすることがないとは聞かされていても、どうしてもこの思いに捉われてしまうのです。封じ込めようとしてもできないでしょうし、拭おうとして拭えるものでもなさそうです。
「元々何もない」と言われた瞬間に、間髪置かず湧き上がる逆らいのこの心は、現に今の私に命を与えている心でありながら、一方では千載に長く悪路へと導く心なのでしょう。
これを自力の迷情というならば、阿弥陀仏にバッサリと断ち切って頂くしかないように思いますが、でもどうやって・・・
南無阿弥陀仏を聞くとはどうなることか、やはりわかりません。(nowhereさんのコメント)

すっと入らないのが、聞いたそのままではないという事です。
救われるとか救われないと言うことを、自分の中に原因を求めていくことは、時には大事な疑問だと思います。
しかし、仮に見つかったとしても、それを一体どうするのかという問題はあります。もし、自分でなんとかできるものがらのことならば、最初から阿弥陀仏は本願を建てられる必要は有りませんでした。

確かに、成仏するということでいえば、想像も出来ない長期間の修行を続けられればできます。しかし、それを実際に私ができるかどうかということです。

できないから阿弥陀仏は本願を建てられたのです。
「間髪置かずわき上がる逆らい心」があるということを書かれていますが、それに向き合いなさいということではありません。向き合って意味があるのは、自分でそれをなんとか出来る場合です。

自力を捨てて、一心に弥陀をたのめと、蓮如上人は繰り返しいわれていますが、「自力をまず捨てて」それから、「一心に弥陀をたのめ」と言われているのではありません。
自力は見るものではなく、捨てる物です。自力を捨てる、も、一心に弥陀をたのめ、も同じ事を言われています。「自力を捨てて」で、つまづいて、どうしたら捨てられるのかと考えておられるのでしたら、「一心に弥陀をたのめ」と聞いて下さい。

自力に向かうのではなく、一心一向に弥陀に帰命しなさいという教えです。