さとるさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
エントリーがしばらく間があいてすみませんでした。
教行信証に、「謹んで真実証を顕はさば、則ち是れ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。」とありますが、親鸞聖人は生きている間に、「利他円満の妙位」に即いて、「無上涅槃の極果」のさとりを得られていたのでしょうか?
もしそうでなければ、教行信証がどうして聖人の「ご己証」と言われるのか、よくわからなくなります。
また、私たちも肉体ある時に、「利他円満の妙位」「無上涅槃の極果」を得られるのでしょうか?(さとるさんのコメント)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100218/1266482118#c1266540743
お尋ねの件ですが、「利他円満の妙位」も「無上涅槃の極果」もともに、仏の位や仏の証のことですから、生きている間に獲られたものではありません。
如来すなはち涅槃なり 涅槃を仏性となづけたり
凡地にしてはさとられず 安養にいたりて証すべし(浄土和讃93)
ご和讃にあるように、仏のさとりは、凡夫である間はさとることが出来ません。弥陀の報土に往生してさとるものです。阿弥陀仏に救われても、煩悩はかわりませんので、仏のさとりをひらくことはありません。
御己証については、
自証ともいう。伝統・伝承を基盤とし、さらにそれをのり越えた独特の発揮。転じて己証を表現された法語を意味することもある。
http://wikidharma.org/4b826f0be2e41
とあるように、教行信証は、伝統を踏まえられた上で、さらに展開された親鸞聖人独特のご解説ということです。
また、自ら知らされたことといえば、「弥陀の本願まこと」、「本願に疑心有ることなし」、「死後仏のさとりをひらかせる本願」であり、それがそのまま親鸞聖人の信心でした。