安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

名号を聞いて救われる、願力を聞いて救われる(暦さんのコメント)

暦さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

私でもなんとか読めそうなものを読ませていただいています。
人間ではなく阿弥陀さまにすがりたい、向かいたいのですが、実体がよく分からない方にすがることはできません。
ということは、阿弥陀さまについてもっと勉強し、心をかけていくよう努力していくことが阿弥陀仏に向かうことであり、また法を仰ぐということであり、その向かった先に救われる、ということがあるのでしょうか。
そう考えると自分なりには納得でき、すこし希望が見えるのですが、ただ今救う、と聞かせていただいていることとは矛盾してしまう気もします。。(暦さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091124/1259014551#c1266085070

回答します。
阿弥陀仏とはどんなお方かをよく知ることは大事ですが、知るという内容はもっと勉強しなければ知ることが出来ないというような複雑なことではありません。
私を助けるために願を建てられた阿弥陀仏がおられ、私を助けようと現在働いておられるということです。
私が救われるのは、阿弥陀仏が私を救うために名乗られた名号を聞いて救われますが、名号を聞くということについて親鸞聖人は、別の言い方でこのように言われています。

『経』(大経)には「即得」といへり、釈(易行品)には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。(教行信証行巻

ここで「願力を聞くによりて、報土の真因決定する」といわれています。
「名号を聞く」を「願力を聞く」と解説され、私が救われるのは名号であり、願力であるということです。南無阿弥陀仏とは、願力そのものであって、私を助けようというお働きのことです。

南無阿弥陀仏によって救われる、願力によってすくわれる。また、その願力は現在私に向かって働いておられるということが分かられればよいと思います。いろいろと学問をされれば、いろいろとそれについて詳しく解説されていますが、中身は、私を助けようと現在阿弥陀仏の願力が、私に働いているということです。

法を仰ぐというのは、智慧を磨いて理解をするのではないという意味です。自分の智恵を磨いて阿弥陀仏の本願が仏のように分かるようになったのが救いではありません。
法とは、南無阿弥陀仏であり、願力ですから理解するものではなく、救って頂くお働きですから、そのお働きは仰ぐといいます。

勉強して、努力をするのは理解をしようということです。南無阿弥陀仏は、願力ですから、文字情報ではないのです。文字はどれだけ積み重ねても文字ですから、理解を深めて、自らの智恵を磨いた先に、救いがあるのではありません。

願力によって救われるので、ただ今救われます。