安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

心が同じでも言葉が変わるのは、そうでないと伝わらない人もあるから(ZhengQingさんのコメント)

ZhengQingさんからコメントを頂きました。有り難うございました。

ここは前から不審に思っていたことです。
「同じ事」ならば「救われてください」とだけ勧めればよいのに、なぜ、善知識は
「弥陀をたのめ」
「本願を信ずべし」
と勧められるのか。

「ただ今救われて下さい。」だけでいいような気もするのですが。(ZhengQingさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100209/1265716553#c1265720052

「弥陀をたのめ」と言われたり、「本願を信ずべし」と言われたり言葉が違うのはなぜかというお尋ねですが、勧める相手によって言い方を変えておられるからだと思います。
善知識方のお心は御文章にあるように

そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。(御文章2帖目11通・五重の義

一心一向に弥陀に帰命すべしという以外にはありません。

「弥陀をたのめ」という場合も、「本願を信ずべし」も共通しているのは、阿弥陀仏が私に対して先に働きかけて下さっていることです。別の言い方をすれば、自力の心では助からぬという自力を捨てよと言われています。

意味からいえば、「たのめ」も「信じよ」も同じではありますが、聞いて人によっては感じ方は変わってきます。
「たのめ」と言われれば、往生は自分の仕事ではないから阿弥陀仏にたのめというように聞こえると思います。「信じよ」といわれれば、疑いが妨げになっているというように聞こえると思います。
いろいろな人に話をしていると、ある言い方で納得されなくても、別の言い方でなら納得されるという場合がよくあります。それは一人一人機が違っているからだと思います。

どちらにしても、「本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを唯信といふ」(唯信鈔文意)と同じで、早く自力を離れて、私に働いて下さっている阿弥陀仏の本願を聞いて下さいと言うことです。